サマディ(禅定)は不要なのか?
いつの頃からか
「禅定(サマディ)が危険である」とか、
「集中系の瞑想はよくない」
といったことが言われています。
が、これはちょっと違いますよね。禅定は必要です。そもそも、お釈迦さまが、そう言われていますからね。
が、禅で言われるように「『ただある』であればいい。禅定は不要」と言われる向きもあります。
はてまた「乾観者(けんかんしゃ)」のアプローチから、禅定(サマディ)が否定されて、「気づきで充分」というケースもあります。
カーラマ経の我田引水で否定する風潮
禅定(サマディ)が否定される向きもありますが、サマディを否定する理由に、カーラマ経を引用しているケースもあります。
「伝統だから、正しいと言われているからといって鵜呑みにしなさんな、自分で確かめなさい」ということですね。
けれども我田引水し過ぎの印象も受けますね。
禅定は、伝統では必要とされています。やはり伝統で伝承されているには理由がありますね。
禅では「ただある」をいいますが、本当にそれを最初から貫くことができればいいですけどね。けれども往々にしてハードルが高くなりがちです。で、虚無になってしまっているケースも少なくありません。
乾観者の道は、智慧が強い人向けの道なんですね。アドヴァイタの智慧の道も、智慧の強い人向けだったりします。
仏教でも智慧だけの道(乾観者)もありますが、並行して禅定の道もあるんですね。なので「智慧の道(乾観者)だけが正しい」という言い方は偏っていますね。
やはり禅定は必要
で、やっぱり「禅定」は必要です。
理屈の上では「禅定がなくてもいい道もある」ということなんですね。で、智慧が優れた人が、智慧の道だけでもOKということだったりします。これが「乾観者」です。
生まれながらに智慧が優れた一部の人は、禅定が無くても悟る可能性があるということですね。で、この道で悟った人を乾観者といっています。
が、これはある意味、特別です。といいますか、一つの道ですね。
「禅定」作るアプローチもあるわけなんです。で、禅定はできたほうがいいですね。禅定でなくても「近行定」は不可欠です。
ちなみに禅定は、あくまで「補助」ですね。また念も禅定系という理解の仕方もあります。動中禅としての念ですね。
で、大事なのは「智慧」なんですね。観る力。如実知見。
禅定は如実知見の補助
結局、「定」も「念」も補助です。
何の補助なのか?
「如実知見」の補助です。
「あるがままに観る」ことの補助です。
で、如実知見のことが「気づき」のことです。「念」を「気づき」とする場合は、「自覚」としての「気づき」だったりします。
「念」には2種類あります。
正念正知としての「念」。自覚としての「気づき」。
もう一つは動中禅としての「念」。一つのことに意識を向け続ける「集中」。禅定としての念です。
実際、六波羅蜜の分類では「念」は「定」に含まれています。禅定となっています。
ところで大乗仏教の六波羅蜜を持ち出すのはどうなの?と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、それは観念的になりすぎです。般若心経はデタラメだと言うのと同じです。観念的になっている。本質がわかっていません。六波羅蜜も正しい実践になります。
で、念も定も、どちらも禅定でして、これらは「あるがまま」を実現するための補助でしょう。
ちなみに「智慧」としての「気づき」もあって、これは目覚めの「気づき」と同じでしょう。
日常の中で「あるがまま」ができる状態こそ本当の禅定
ここが理解できるようになりますと、最上乗禅、真如三昧、一行三昧、如来清浄禅が究極であるという意味がわかると思います。日常生活で三昧状態になることが悟り・解脱であるということです。
日常の中で「あるがまま」から禅定に至る状態こそ本当の禅定。最上乗禅、真如三昧、一行三昧、如来清浄禅。溶け込み、一体化し、まさにあるがままが実現された状態です。このことがわかってくると思います。
なので、いわゆる「禅定」ができるようになっても、それは一里塚に過ぎず、日常的に「あるがまま」になってこそ、本当の禅定ということでしょう。
で、その状態を、最上乗禅、真如三昧、一行三昧、如来清浄禅といっているんだと思います。
これが達成できずに、四禅八定ができたとしても、一里塚に過ぎないということですね。
一境性は必要です。これがありませんと、ヴィパッサナ瞑想の本領発揮にはならないでしょう。定力がありませんと、ゆるい気づきのまま止まってしまいます。
禅定力は大事なエッセンスですね。