仏教の善は真我的な意味合いもある
仏教では善を強調していますが、これは真我的意識を具体的に言い表した表現ですね。
というのも、本来、仏教では観念的に実践はしないからです。そもそも観念的な実践は必ず行き詰まります。
なので善という概念は、教条的・道徳的なところから入っても、観念を超えた有り様を体感していく必要があります。
で、それこそが真我的な意識じゃないかと思います。
実際のところ真我がもたらすエッセンスは善という言い方もできます。ただこれは観念的な善ではないんですね。
善は観念を超えている
で、仏教では善を掲げることによって、
・教条的な善・・・倫理道徳となって社会を善化する
・観念を超えた善・・・真我的
となり、どちらの有り様であってもプラスに作用するメリットがあり、これが仏教のすごいところの一つです。
どっちに転んでもプラスに作用する指導といいますか教えはすごいとしか言いようがありません。
で、仏教は、悟りの道になればなるほど、書物や教義を離れ、言葉や観念を離れてまいります。
それでも仏教書などで教えを学ぶことも大事ですね。
善とはエネルギー
で、「善」といっても本質は、明るさ、広がり、軽やかさ、柔軟さ、落ち着きなどの有り様をいいますね。
「ホワイトな様」のことです。法律的な意味や理想的な人間を示す善ではないんですね、本当は。
で、何故これほど重んじているのかといえば、たとえばエネルギー的な開花が始まると、その重要性がわかってまいります。
そもそもエネルギーには善も悪もありません。が、エネルギーは善(ホワイト)の有り様を加速倍増する働きをします。
が、この逆もまた然り。エネルギーは悪(ブラック)の有り様をも加速倍増させる働きをします。
実はこういう現象があります。なので「善」といわれるホワイトな様が大事になってくるんですね。決して観念的な話しでなかったりします。「安全性」の問題でもあります。
この話は結構深かったりします。サリンを撒いた某教団事件の真因とも関係があります。
で、昔から伝わっている教義は大変深いところまで示唆していると思います。ですので伝えられている教えを身につけたほうがよいと思っています。
慚愧は気づきのこと
ちなみに善と関係するのが慚愧(ざんき)。ヒリ・オタパ。
・慚・・・恥を知る心
・愧・・・悪を怖れる心
慚愧(ざんき)は「善いこと悪いこと」という勧善懲悪的な説明がされやすいのですいが、本質はそんな単純な話しでないんですね。
慚愧の本質は感受力です。エゴなのかピュアなのかを感じ取るセンス(感受力)。「気づき」。
テーラワーダ仏教では「気づき」を、「慚愧」といった言い方でも表現もしています。
感じ取るセンスですね。
「気づき」。
慚愧は自己観察の別の表現です。