在家仏教の悟り修行では悟り系と幸福系の両方が必要
在家仏教の悟り系の取り組みでは、殊に現代では、
悟り系モードと、幸福系モードの両方が必要です。
・悟り系モード・・・悟る道/「いまここ」「手放す」
・幸福系モード・・・物心両面にわたって幸せになる道/「善行」「浄化」
何故、両方が必要なのか。
悟り系モードの「手放す」「手放す」を徹底していくと、
失業したり、貧困になったり、あるいは離婚したり、
果てまた浮浪者になってしまうことも起きる場合があるからです。
で、これが実際に起きているケースもあるんです。
失業、離婚、貧困、浮浪者になってしまう。
実際に起きている。
自分の内面から生じる思いを「ありのまま」受け止めて、
その感性にしたがって生きていくと、不幸不運になってしまう人も出てきます。
業(カルマ)によっては、こうなってしまう。
悟り系(いまここ)は本来は出家向け
そもそも悟り系モードは、「出家向け」なんです。
出家は、元より「乞食(こつじき)」です。
人の家々に行って、ご飯を頂戴します。
これは最低限の生活です。
形は浮浪者と同じ。
形は浮浪者と同じなのが出家。
これ以上、悪くなりようがありません。
で、この出家の最低限な生活スタイルは、
もし悪い業(カルマ)が出て不幸になっても、
これ以上悪くならないための安全装置にもなっているんです。
悟り系モード一本は本来「出家向け」なんです。
リスク対策も備えた形態になっているんです。
よく考えられていると思いますね。
が、このことはほとんど気づかれていない。
在家が悟り系(いまここ)を行う場合は工夫が必要
だから、在家が悟り系を実践するなら、工夫が必要になるわけです。
でなければ、生活が破綻してしまうことも出てきます。
そこで「悟り系モード」と「幸福系モード」なわけなんです。
両方を満たす。
この工夫が欠かせない。
必要。
悟り系モードと、幸福系モードの合体。
捨てる系と、積み重ねる系の合体。
これが必要。
しかし、矛盾しているんですね^^;
けれども、この矛盾を満たさないと、
実際の生活では困ることが起きるわけなんです。
なので、深く研究を続けています。
試行錯誤の連続。
もう、こういうのを何年にもわたって行っていて、
試行錯誤をしています。
真我・宇宙意識は欠かせない
それと、「いまここ」における「あるがまま」といっても、
その「あるがまま」である姿勢そのものが、
どういう状態であるかが、ものすごく重要なわけなんです。
その状態・姿勢こそが真我なわけですね。
宇宙意識といってもいいでしょう。
これが目標でもあり、瞑想をする主体にもなるわけですね。
これを無視すると、とかく問題が起きます。
暗く、閉鎖的で、マインド状態から「いまここ」をやったり「あるがまま」とやっても、
一向に埒があきません。
悩みが消えていったりする「心が滅する」体験をしません。
いつまでも悩みがリピートし、悩みの反すうが続きます。
だから、「いまここ」では、その「あるがまま」が
どういう状態であるのかをつかむことが大切なんです。
テーラワーダでは真我を否定するが・・・
しかしテーラワーダ仏教では、真我を否定しています。
なので「瞑想をする主体」に言及しません。
いえ言及できません。
てか、そもそも論として、何らかの状態を想定すると、
それは「アートマン」であるとして否定します。
それがテーラワーダ仏教の有り様。
しかし、これでが瞑想がうまくできなくなりやすい。
てか、実際問題として「瞑想難民」を生み続けています。
ところが、アドヴァイタや大乗仏教、あるいはスピリチュアルでは、
「真我」とか、「本当の自分」「大いなる存在」「宇宙意識」とか
様々な呼び名で言って、それを目指します。
実習方法に関していえば、アドヴァイタのほうがいいんです。
「気づき」のやり方もでそうです。
テーラワーダ系では、外部の対象物に「気づく」なんてやっています。
しかし、これは間違いです。
真我がわかるまで時間がかかることもある
ポイントは、「本当の自分」「大いなる存在」の感覚。
で、「大いなる存在」がわかっても、これに純粋に深くくつろぐことも必要。
しかし、ここにも問題が出てきます。
というのも、これができればいいのでしょうが、
ここにも課題があります。
ある程度、時間がかかる。
深まるには、時間が必要。
10年以上かかっている人も少なくありません。
てか、深まりこそ最も時間がかかります。
一生かかっても深まらないこともあります。
しかも、この深まっていくプロセスの期間は「無防備」になりがちです。
隙が出来やすくなります。
で、ここでもリスクが生じるわけなんです。
「いまここ」が深まると無防備になっていく
この無防備な状態もまた大きな課題なんですね。
無防備になる期間、どう過ごすのか。
安全に過ごすのかってことなんです。
その間も、傷ついたりして大変になったりします。
なので、現代社会での在家として、「あるがまま」を深めていくことは、
ハードルの高いことだったりします。
出家するとかの相当な工夫が必要。
が、これまた、このことへの言及がまったくないんですね!
驚くことに。
言及がないどころか、山奥へ行ったり、出家したり、
人里から離れることを「逃げている」といって否定する人すらいます。
出家遁世は、「あるがまま」を深めるためには必要な環境でもあります。
人によっては必要。
ちなみに浅い段階の「いまここ」なら、全然、問題ありません^^
出家する必要はありません。
むしろ、「いまここ」に初めて開けると、そのインパクトから
喜びが多くなり、楽しいことが感じられます。
パフォーマンスも上がりますので、いい感じになります。
が、真剣にいまここを行い、数年くらい経ってくると、
意識の深い部分があらわになってきます。
で、ダークサイドと対峙するようになります。
ここからが真剣勝負です。
無防備になることが多くなり、
新しい課題に直面するようになると思います。
「いまここ」修行では「善き環境」「善い運(徳)」「守護神」で護られていることが必要
深い修行になってくると、護られる環境が必要なんです。
出家の環境とか、在家でもストレスの少ない環境。
こうした安全な環境が必要。
修行ができる環境ですね。
それと、護られる運勢に入っていること。
インド占星術でいうところの幸運期。
良い運勢(ダシャー)であること。
これと関連して、徳があること。
徳があれば幸福になりやすいんです。
で、幸福になるためには、布施や利他の実践が欠かせません。
ほら、ここで一致するでしょ?
幸福であることは修行を進めやすくするんです。
決して現世利益ではないんです。
それと、神々に護っていただくこと。
自分に守護神や守護霊がいらっしゃること。
善き環境、善い運(徳)、守護神
この3つが、修行を進めるための保護的存在であり、基盤です。
なので、大乗仏教では、こうしたことを奨めるわけなんです。
「善き環境、善い運(徳)、守護神」を求めるのは、
現世利益じゃあないんです。
修行ができる環境、条件を作るために、
現世利益的なものが必要なんです。
環境、運(徳)、守護神。
この3つ。
これらは、無防備になったときのガーディアン(守護者)になるんです。
安全に修行を進めるファクターになるんです。
この発見。
気づき。
これらのことは、私の体験上からの発見であり、気づきなんです。
とても大切。
それにしても不思議。
私は、幼少の頃から、こうしたことに飽くなき関心があって、
いまだに、あーでもない、こーでもないとやっています。
ホント、不思議ですね^^
まとめ
で、以上、長々と書いたので「まとめ」。
・悟り系は、基本的に「出家向け」。
在家には難しい。
・「あるがまま」を徹底すると、業(カルマ)によっては、不幸不運になる人もいる。
現実的にいえば、不幸不運にならない調整、サジ加減が必要になってくる。
・「あるがまま」であるためには、「あるがまま」の姿勢が大切。
本当の自分、大いなる存在に開けている感覚を正確につかむ必要がある。
しかし、このことがテーラワーダ仏教では一切、言及していない(欠陥がある)。
アドヴァイタ、大乗仏教では言及している。
・テーラワーダでは「気づき」の対象を「外部」にしているが、これは間違い。
気づきの主体や、感覚器官に気づくのが正しい。
・「あるがまま」が深まると、無防備になる。
無防備になると、傷つきやすくなったり、不安定になったりして危険。
現代社会で生きている者が、こうした状態になると、生活が困難になったりして、
最悪、破綻することもあり得る。
だから、
・善き環境(ストレスの無い環境、出家環境)
・運の良さ・徳があること(幸福であり危険に冒されにくい状態)
・守護神・守護霊に護られていること(神々に護っていただいて安全にできること)
この3つが必要。
そうして、悟り系モードと幸福系モードを合体、折衷。
つまり、
「手放すことの実践」+「布施、慈愛の実践で徳を高めていく実践」
これを工夫しながら使い分けながら行っていくことが欠かせない。
社会の中でやっていけるような工夫は、現代では必須。
しかし!この重大なことに、しっかりと言及している人は、
ほとんどいないというのが現実。