運鈍根は成功するための三要因
昔から成功するためには「運鈍根(うんどんこん)」と言われていますね。
運鈍根。
誰でも一度は聞いたことがあるでしょう。座右の銘にしている方も少なくないでしょう。
「運鈍根」とは、成功するための三要因ともいわれています。どういう意味かといいますと、
- 運・・・幸運、または幸運を誘発するくらいの努力
- 鈍・・・鈍いくらいの粘り強さ、文字通り「鈍感」とする場合もあり
- 根・・・根気、根性
大体、こういう意味ですね。
三つのエッセンスになっていますが、まとめますと、粘り強く努力することで、運をも招いて、成功街道を歩むようになるという教えになります。
運も大切だといいますが、この運も、しぶとく粘り強く努力することで、引き寄せてしまうという解釈のほうが実際的になります。
運鈍根の由来は近江商人
運鈍根は人口に膾炙されて、世間で功成り名を挙げた方々も好んで使い、座右の銘にしている有名な慣用句でもありますね。
で、この運鈍根の由来となると、はっきりしない様子もありますが、どうやら近江商人(おうみしょうにん)にルーツがあるようです。
近江商人は、江州商人(ごうしゅうしょうにん)とも言われていますが、今の滋賀県ですね。
近江商人は「運鈍根」の他にも「三方よし」という、商売の心得としては、これまた有名な言葉を残しています。
ちなみに「三方よし」とは、「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」のことをいいますね。
運鈍根はデリカシーに欠く古い成功法則
有名な「運鈍根」ですが、しかしこう言っては何ですが、現在の時代には必ずしも合っていない面もあります。
といいますのは、「運鈍根」は、受け止め方、理解、解釈によっては、デリカシーに欠けることがあるからです。繊細な感性を欠いたKYな成功要因になることがあります。
旧い時代の感性や生活感に根ざしたものもあります。運鈍根は、ザックリといえば、ど根性で辛抱し頑張ることで成功するといったノリもあります。
そもそも「運鈍根」は、貧困や逆境からのし上がって成功しようとする激しさを根底に秘めたケースもあります。穏やかでは無い激しさもあります。
また怒り・恨み・貧しさをバネにして・・・といったネガティブパワーをモチベーションとしたやり方も包括します。
確かに「運鈍根」は成功するための秘訣になり得ます。
今の時代には「運鈍根」は合わない
「運鈍根」は、人間の「生きる」という本能に直結し、がむしゃらにでも困難を乗り越えようとする美徳を内包している優れた成功エッセンスです。
が、ある種の激しさやネガティビティな要因も包括したやり方は、現代では問題となることも起きえます。
それだけ現代は「洗練された社会」と言えるのでしょう。事実、現代の若者考ではありませんが、昭和の時代に比べて上品で優しくなっています。
ご高齢の世代は、こうした今の若者を揶揄する向きもあります。が、それは早計でしょう。
いつの時代でも若者は、年配者から批判されているものです。それに今の時代は、昭和の時代と、それ以前に比べれば、良くなっていることは明らかです。
「運鈍根」は粗雑な成功要因
今の時代に合った感性・感覚もまた重視する必要があります。尊重することも大切です。時代的な観点からいいますと、「運鈍根」は粗雑な成功要因ともなります。
昔のように貧困から這い上がらざるを得ない時代では、容認された成功要因と言えるかもしれません。
現代のようにインフラが整い、共生が重視されていく時代では、昔の「運鈍根」では害悪も出てきます。
荒々しさを内包したエッセンスは、ときにエゴイズムに走らせたり、なりふり構わない行動に走らせることもでてきます。
もちろん状況的にやむを得ない場合は、ときに激しい行動原理で突破していくことも欠かせません。
けれども、こうした緊急時をのぞいては、荒々しい行動原理は、現代ではひんしゅくを買うことも出てきます。
運鈍根はパワハラやブラック企業の温床?
運鈍根の成功原理は、悪用されかねません。たとえば「ブラック企業」がそうです。
ブラック企業に関しては、デフレ社会にによって国民全体が貧しくなったという、社会情勢が誘発している面もあります。
しかしながら社員を「ど根性」の精神論で縛り付けて、強制的に働かせるのは問題です。
こうしたパワハラも、根底に旧い「運鈍根」の思想が横たわっていることもあります。
パワハラの温床になっているのが「運鈍根」という見方もできます。少々うがった見方になりますが。
運鈍根の良し悪しは一概に何とも言えないところはあります。が、「運鈍根」といった成功の秘訣は、ブラック企業をも容認してしまう面があるということですね。
粗雑な成功の秘訣は、ブラック企業の誕生をもうながしかねないリスクがあるといえましょうか。
運鈍根のデメリットとは
もっとも「運鈍根」の受け止め方は人それぞれですね。
しかしそうであったとしても「運鈍根」には問題があるということですね。今では諸手を挙げて賛成はできません。
今の時代に諸手を挙げて賛成するのは、さすがに感性が粗雑過ぎると思います。
現代では、そのように受け止める向きも出てきています。
「運」といっても先天的に決まっていることもある
「運鈍根」のうち、そもそも「運」といっても、運は先天的に決まっていることも多いものです。
もちろん後天的に運を培うこともできますが、先天的に家系的から受け継いでいる要因も多々あります。
運の良し悪しは、それをひっくり返してしまうことも、なかなか難しいものです。
だから「運」のことを言われると、身もフタも無くなってしまうことになりやすいものです。
「鈍」もKYでは困ることが多い
また「鈍」にしても、本当に鈍感になってしまったなら「KY」と揶揄されたり、ひんしゅくを買います。
「鈍」の精神で、しぶとく粘ったとしても、それがストーカー的な執念になるなら、これまたひんしゅくを買います。
現実には、KYだったり、執念深い「鈍」によって、まさに「鈍感」という独りよがりな自己満足に陥ってしまっているケースもみられます。
現代では、配慮を欠いた「鈍」では困るわけですね。
「根」も執念になると人迷惑
また「根」もそうです。「根性」「根気」といっても、エゴを追及する「根」では人迷惑です。
「鈍」と同じで、執念深い「根気」もまた、状況によっては煙たがられます。
「運鈍根」は昔の成功の秘訣
結局、「運鈍根」は、古い時代の成功の秘訣であり、粗雑な感性から生み出された3つの成功要因という見方もできるってことです。
下手をすると誤った成功をもたらすことも出てきます。問題のある成功要因であり、成功の秘訣ともいえます。
いえいえ「運鈍根」も配慮があって、人様に迷惑をかけない有り様であるならば、何ら問題はありません。
けれども実際は、粗雑な感性やエゴイズムを内包した手前勝手な成功の秘訣に成り下がってしまっていることが、現代では目立ってきているのではないかと思います。
ブラック企業にみられる「ど根性でなせば成る」といった精神論は、これが必要となる状況があるにせよ、現代では歪んだ成功をもたらすことのほうが多くなっているかもしれません。
これでは迷惑な成功術であり、処世術となってしまいます。
「若い時の苦労は買ってでもせよ」と同様に古い時代の成功法則です。
運鈍根に変わる新しい成功要因~「繊受善」
現代では、周囲にも喜ばれる成功をもたらし、本当に幸福になる成功の秘訣は、もっと別のものだと思います。
「運鈍根」にならってあえてまとめれば、それは「繊受善」といえます。
「察受善」
あまり良い語呂ではありませんが、「察受善」とは、
- 察し・・・きめの細かい配慮、慮り、気付き。
- 受容・・・できるだけ物事を寛大に受け止めて、陽気発動する様。
- 善行・・・道理にかなった努力、行いをすること。善行。善行をしていると協力も得やすくなります。
こういう行動原理に則って成功を目指すアプローチです。
感受性が豊かで、相手への気配りを備えながらも受容力があり、また善性に根ざしながら成功に至るプロセスです。これが「良い成功」をもたらします。
少々理想論的過ぎるてらいがあるかもしれません。けれども、ほとんどの人が、こうした善性に根ざした成功街道を夢みています。
「察受善」は徳行のアプローチ
「察受善」のアプローチは成功というより、「徳」を重ねていく「徳行」です。善を実践してゆく行動原理です。
人道にもかない、関わる人の全てを幸福に導きます。本当の意味での「成功」とは、徳行にかなったものだったりします。
察し・受容・善行というアプローチなら、徳にもとづいた成功をもたらします。また自分も周囲をも幸福に導きます。
旧来からの「運鈍根」は、ややもすると荒々しく粗雑になったりして、エゴイストに走らせたりすることも出てきます。
問題のある成功をも生み出す「リスクある成功の秘訣」といった見方もできます。それだけ、時代が変わってきているというのもあると思います。
で、運鈍根とは違って、気配り・受容さ・善行という成功エッセンスであるなら、人間性も人格も高まります。良い形での成功をもたらしますね。
とはいいましても、察し・受容・善行の実践は、現実にはなかなか難しくなります。「運鈍根」よりも難しい実践かもしれません。
なぜなら現代社会のシステムそのものが、弱肉強食のシステムだからです。こういう舞台、前提では、理想を実践し追及することは大変難しくなります。工夫や創意も必要です。
仏教の実践こそが「察受善」
「察受善」といっても、現実的にはなかなか難しいでしょう。「運鈍根」の実践のほうが簡単で手っ取り早いかもしれません。
ですが、せめて意識して少しでも実践できるといいですね。意向を汲み取り、気付きを伴いつつの受容性を持ち、そうして道理に反しない形で歩んでいく。少しでもこれを取り入れていくのが実際的かもしれません。
ですが、察し・受容力・善行力は養うことができます。
どうすればよいのか?
実は、この3つの要因こそ仏教の実践や瞑想によって得ることができます。
察し・・・いまここ・マインドフルネス
受容・・・慈悲・ハート
善行・・・心のきよらかさ
ご覧の通りです。
察し、と受容力、善行の力は、瞑想の助けによって得ることができるんですね。
ちなみに「禅的な」な内容に思われるかもしれませんが、少々異なります。というのも、禅には、慈悲やハートが欠落しているからです。禅は、ドライです。
むしろ、ここで述べていることは、テーラワーダ仏教やスピリチュアル系になります。そもそも日本に伝来されている仏教は、本場インドの仏教とは異なっています。
現在では「マインドフルネス」として広く浸透してきています。この「マインドフルネス」こそテーラワーダ仏教に伝承される方法だったりします。ご興味にあります方は、ぜひご覧になってみてください。