天使・天人達の気配を感じる
人によっては妄想と聞こえるかもしれませんが、私は天使・天人の気配を感じるときがあったりします。
普段の生活の中でも、そういうのをふっと感じ取ったり。
そういうのを感じさせる場所もあります。
また、そう感じさせる人もいます。
良い気配には近づき親しむのがおすすめ
音楽にも天使・天人に通じる響きを奏でるものがあったりします。
音楽に限らず、天使・天人のような良い「感じ」「波動」「響き」「雰囲気」のある場所、モノ、人というのは近づいたほうがよいと思っています。
反対に、非天人のような暗く、閉じて、ジメっとした感じさのある場所、モノ、人は、敬遠したほうがいいと思います。
人は、常に神々しい雰囲気の中にいることが大事だと思うからです。
こうした「気配」のようなものは、これまた幼少の頃から感じていたりもします。
「気配」
こういうのは説明しようがありません。
けれども、この手のことは普段は言わないようにしています。時に「おかしな人(イっちゃった人)」に思われたり、アブナイ発言に受け止められるからですね^^;
仙境異聞における平田篤胤の指摘
しかしですね、江戸時代の国学者「平田篤胤」は、「天狗小僧寅吉」の話しをまとめた「仙境異聞」の中で、大変、興味深い指摘をしていたりもします。
それは、学者・物知りに限って、
「神はいない」だの、
「仙人・天狗はいない」だの、
「神秘・不思議はない」、
「そのような道理は無い」と言って、
我意を張ると。
これは良い指摘です。
その通りです。
もっとも、妄想が過ぎてしまってアブナイ状態になっている場合もあります。
が、こういうのは別です。
目に見えない世界を感じることも大切
アストラル界的な物事は、確かに存在していると思いますね。平田篤胤の指摘の通りだと思います。
目に見えることのみで判断して理屈を言うのは、それはちょっと狭い了見になるかもしれません。
「なんとなく感じる」。
目に見えない世界に「何か」を感じる。
そういうのを「妄想」として一刀両断することなく、微細なその感じを味わってみる。
そういう感性の向こうに、人知を超えた世界が開けてきたりもします。
オカルトには不用意に立ち入るのもリスキー
しかし、この手のことは、いわゆる「オカルト」の扱いをされがちです。
事実、妄想が入り乱れていて、おかしな状態になっていることも多かったりします。
だから批難されたり、揶揄されることも少なくないのですね。
実際のところ不用意に立ち入るのは賢明ではありません。用心し、注意深く関わる必要もあります。
なので、この手のオカルトを十把一絡げに否定したがる方の気持ちもわかります。
一理あると思います。
けれども、それがオカルト的な妄想なのか、そうではないのか。その真偽がわかることも多いものです。
もちろん、そのカンなりを外すときもありますが、おおむね「それは妄想だなあ」「それは本当っぽい」というのが、なんとなくわかったりします。
で、そういう中で「本当っぽい」というのを検証していきますと、いろいろとわかってくるものもあります。
天使・天人の気配はあたたかさがある
時々感じる天人の気配。
天使・天人が近づいてくる場所や人というのは、春のそよ風のようにやわらかく、あたたかく、ハートにあふれている雰囲気があったりします。
と同時に、凛とした空気があります。
二律背反する徳のエネルギーがあるのが特徴です。
私が雰囲気を重んじるのは、いろんな理由がありますが、高次元のアストラル界とつながることで、人の性格や能力も向上すると感じているからだったりします。
人をゆたかにさせる雰囲気を一言でいいますと「徳」ということにもなります。
うるおい・ハートは大切
最近はノンデュアリティやら、ドライな禅的なものも流布してきていますが、そういうのはよろしくありません。
「ある」という視点から見れば、雰囲気もうつろう対象なので構うなという論法もわかります。
が、潤いの無い人間はつまらないものです。
禅的なものは、あまりにも効率を求めすぎてドライになり過ぎている。
やっぱり「うるおい」は大切。
ハートは大切。
これを抜いてしまうと、どうしても偏りやすい。
冷たくなりやすい。
雰囲気は大切だと思いますね。
で、雰囲気を大切にした上で理屈も通り、論理的にも整合性が取れているなら言うことはありません。
最上です。
人身を受けて、この世界にいるならば、
人は天人的な存在になるようにまず努め、
そこから梵天、最上へと経ていくのが、
よろしいのではないかと感じています。