手放す・執着しないの本当の意味
仏教って「手放す」とか「執着しない」とか言いますよね。これって、確かにそうなんですが、ある意味、悟るための修行、しかも主に出家向けの修行アプローチだったりします。
で、「手放す」とか「執着しない」というのは、真我や、慈悲エネルギーが、「本当の自分」と感じれたときの有り様だったりもします。
どういうことか?
あえて言語化するならば、真我や、慈悲エネルギーが自分なので、第四図世界の物事にとらわれなくなるってことなんですね。
なので、「手放す」とか「執着しない」の言葉の裏には、「真我、慈悲エネルギーが自分」といったことが隠されているんですね。
最初は意図的に手放す・執着しない
ただ、話しがややこしいのは最初は、根性で「手放す」とか「執着しない」をしていくわけです。これは、意識が完全に第四図世界に浸かっている人のアプローチ。
が、真我や慈悲に開けてくると、そこに溶け込むことをしながら、ゆるりとした感じで、第四図世界の諸々を「手放す」とか「執着しない」ような有り様になっていくってことです。これは、意識が第五図世界に開きつつも、第四図世界に浸かっている人のアプローチ。
で、最終的には、真我、慈悲に溶け込んでしまうわけですね。で、これを悟りといっています。完全に第五図世界に溶け込んだ人です。
手放す・執着しないは虚無に陥るおそれ
なので、「手放す」とか「執着しない」という言葉には注意しないとならんわけですね。
まだ第五図世界に開けていないうちに、額面通り受け止めると、100%虚無になります。虚無として解釈します。
で、これが仏教の危ないところ。
で、数千年前から多くの人が陥ってきた巨大な落とし穴。精妙なところ。
もしも、この辺りのことが、よーくわかっていませんと、100%虚無として解釈してしまいます。
人生で幸せになることはよくない。
幸福になるのはマズい。
結婚することはよくない。
子どもをもうけ育てることは無意味だ。
お金を儲けることはよくない。
何かを達成したり、成し遂げることはよくない。
とにかく、何かをすることは、
執着、とらわれになるので、よくない、
やってはいけない。
と^^;
ありがちな受け止め方です。
が、これこそが、第四図世界の「分別・判断・理解」の受け止め方なんですね。これで受け止めると、ほぼ100%、このように虚無として理解するようになります。
しかし、これは違うんですね。
そうじゃあないんです。
そもそも、この解釈では、死後、悪趣へ行く可能性が高くなります。本質は、悪い意味での厭世的で、否定的、悲観的だからです。
つまり、ネガティブ過ぎるわけです。で、この状態だと、死後、餓鬼の世界へ転生しますよ。
慈しみに根ざした手放す・執着しない
そうじゃないんですね。
真我、慈悲に開けることで、それが「本当の自分」として感じられ、第四図世界の諸々が、二次的なものとして感じられるってことなんですね。
で、そういう感覚を言語化すると、第四図世界の幸福だけを追求するのはどうかねー。
結婚もいいけど、それよりももっと価値あることがあるよねー。
子どもをもうけ育てることもいいけど、それよりももっと価値あることがあるよ。
お金を儲けることもいいけど、それよりももっと価値あることがあるね。
第四図世界のことに執着したり、とらわれのは、うーん、あんまりよくないね。
となるんですね。
決して第四図世界のすべてを否定しているわけじゃあないんです。それよりも、もっと大事なのがあるよ、といった、「さやしい」ニュアンスなんです。
ただ、修行していく上では、一時的に、否定することも必要です。こういうのをごちゃ混ぜにしてしまうと、おかしな受け止め方をしてしまいます。
虚無な預流果は考えにくい
そもそも、悟りの初門に入った預流果は、死後、天界へ往くんですね。ええ、悟りの初門の者は、死後、天人になります。
で、天界へ転生するためには、ポジティブで、ハッピーで、幸せで、善や徳に満ちていないと生まれ変われないわけです。
で、虚無な人が、天界へ生まれ変われますか?見るもの聞くものが「虚しい」といつもつぶやている人が、死後、明るい世界である天界へ行けますか?
できませんよ^^;
じぇったいに無理。
無理、無理、無理^^;
せいぜい餓鬼ですよ。
人生は虚しい。
結婚なんか虚しい。
子どもをもうけるなんてムダだ。
幸せになるのはよくない。
厭世観バリバリで、見ること聞くことに「虚無だ」と否定的な人だったら、死後、餓鬼へ行きます^^;あるいは、畜生、地獄の切符も用意されていますよ。
預流果はハートフルか虚無ではない
で、ここで一つの発見があるわけです。「預流果はハートフルで、ポジティブで、善や徳に満ちているんだ」と。
そうでしょ?^^;
そうでなきゃ、死後、天界へ転生しますか?
もちろん、預流果の幸福感は、五感を刺激する第四図世界の幸福感ではなく、真我のそれからもたらされるエッセンスが主なことは言うまでもありません。でも、属性としては、幸福であり、ポジティブなわけですね。
誤解の多い仏教
なのでね、仏教には根本的に、ものすごく巨大な間違いや誤解が横行しているんです。
虚無。
「手放す」「執着しない」を虚無として理解してしまうこと。解釈してしまうこと。これは、もう大間違い!
修行の途上で、そういう時期があったとしても、そこから変容しいくようになるんです。
幸福を感じ、愛を感じ、誰かのために役に立ちたいという衝動、利他の思い、善を愛し、徳に生きたいというエネルギー。そういうのが、預流果の心の中なんですね。
でなければ、預流果は死後、天界へ転生しませんよ^^;
理屈で考えてもわかることです。
そう思いませんか?
預流果は虚無ではない
ものすごくシンプルなロジックでも解けることなんですよ。「預流果になれば、天界と人間界を7度行き来して、完全なる悟りに至る」
これは古来より、仏教で伝承されている真理であり、公式です。この真理、公式をよーく熟読玩味すれば、上記のようになりますって。
で、預流果になることは、自分をよくし、幸せになり、運命もよくなっていく、幸福の道ということもわかるわけなんです。
悟りの道は、ミクロ的には手放すことにウェイトが置かれる虚無的な時期があったとしても、長い目でみれば、世間の幸福を超越しているとはいえ、幸福になる道だったりします。
基本的に幸福感か虚無でないこと
だからですね、基本的には、幸せ、ハッピー、ポジティブ、感動、喜び、歓喜といった情感も大事なんです。これをもいきなり「捨てる」だなんてゆーのは乱暴。
情感は、むしろ、高揚し、高波動になっていくんですね。
歓喜です。
涙するような高い波動のある情感。
で、こうした粒子の細かい情緒こそ、第五図世界の情緒でもあると思うんですね。
と、ちょっと書き過ぎの感もある、今日の独り言。