宗教は人を不幸にする

宗教は人を不幸にする

宗教は人を不幸にすることがありますね。ええ、実際のところ、宗教によって不幸になるケースがあります。宗教にのめり込む、おかしな宗教教義を信じるなどなど。

結局、宗教の教えは観念なんですが、観念・思いが強くなると、たとえそれが良い教えであっても、人は不幸になってしまうということだったりします。たとえ「良い教え」であってもです。

教えは観念なので対立を生み出す

教えは観念ですので、観念にしがみつくと必ず不幸になるんですね。苦しみとなります。

なぜなら観念・思いとは、そういう性質があるからです。宗教に限らず、政治思想をはじめ、思想や哲学にしがみつき、こだわると、必ず不自由になります。

実際、宗教戦争が起きるのも、端的に言えば、教義という観念・思いへのこだわりが原因です。教義にとらわれると必ず頑なになります。争いになります。カルトになります。

観念・思いは、物事を理解するために事象に対して線引きをして区分けをする知的行為です。

分離させるわけですね。分離させるので、違いが出てきて、必然的に対立関係が起きやすくなる。だから観念を強く信じて握りしめると、争いになるわけです。

正しいとされている宗教でも教えにこだわれば不幸になる

それが正しいとされている宗教であってもそうです。実際、宗教戦争や派閥争いみたいなことが宗教の世界では起きていますからね。

正しいとされている宗教でも教えにこだわれば不幸になります。例外はありません。

これの極端なケースは、オ◎ムです。オ◎ムの場合は破壊的な教義ですので、そもそも正しくないのですが、間違った教義を掲げている宗教だからこそ、その破壊性はひとしおだったわけですね。

だから国家転覆を構想するほど暴力的な行動にも出たわけですね。危険過ぎますね。

性欲を禁止する宗教も危険

ちなみに悩みの深層・コアが「性」にある場合、宗教はかえって足かせになったり、問題をややこしくしてしまうことがありますね。

宗教は「教義」が先に立ちますので、その教義に縛られて、本能レベルの解放ができなくなり、こじらせてしまう場合も。

で、禁欲を美徳としている宗教では、こじれてしまった有り様であっても「正しい」としてしまいます。で、ますます問題をこじらせてしまう悲劇になりますね。もう不幸のズンドコです。

性欲を認めるほうが解決することも

反対に、深刻と思えた悩みが、彼氏彼女ができたことで解決することもあります。意外とあるんですね。

人の悩みって、深刻そうに見えても、実は原因がシンプルだったりすることがあります。

特に若い人の悩みは、意外と「性」がポイントになっているんですね。難しいことや高尚なことで悩んでいる人ほど、彼氏彼女ができると、コロリと変わってしまいます。異性パワーってあなどれないんですね。

宗教によって不幸になっても信じる不幸

けれども教えを頑なに信奉している人にしてみれば、自分が不幸な状態になっても、それに気づくことなく、ますます頑なに教えにしがみつき信じようとします。ここまでくると悲しくもなりますね。

教えは凶器になり得ます。教えにしがみつき、絶対視し、こだわると、例外なく不幸になるってことです。苦しみの原因になります。例外はありません。

教義よりも雰囲気が大切

宗教は、意外や意外、苦しみを増長してしまうことが少なくありません。こういう場合もありますので、教義もさることながら、受け入れたり解放する雰囲気や空気が大事だと思っています。

で、この雰囲気や空気は、教義との関わり合いも関係しています。適切な関わりをしていますと、いい塩梅のエネルギーが生じてきます。雰囲気や空気を重視するのは、こういう理由があるからですね。

で、この雰囲気や空気こそ、エネルギーが関連しているわけでして、雰囲気や空気を重視する理由は、実は、ここにあったりします。教義もさることながら、雰囲気・空気の様が大事だったりしますね。

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