清浄道論とは?
清浄道論(しょうじょうどうろん)。
5世紀頃に、インドからスリランカにわたったブッダゴーサ(仏音)が書き著した瞑想テキストですね。
テーラワーダ仏教圏では、パーリ仏典にならぶ最高権威書です。
とはいっても、スリランカの「大寺派」によるテキストです。
当時は、ライバル勢力に「無畏山寺」というのがあって、無畏山寺には「解脱道論」という瞑想マニュアルがありました。漢訳文献ですが、今でも現存しています。
で、清浄道論は、解脱道論を下地にして作成されています。ライバル部派が所有していた瞑想テキストを下地にして(パクって)作成してあるということですね。これは清浄道論を見ればハッキリとわかります。
しかし、清浄道論にしても、解脱道論にしても、パーリ中部経典24「伝車経」の七清浄が骨子になっています。
解脱道論と違って、清浄道論はパーリ小部の無礙解道から多く引用しています。無礙解道から多く引用しているため、清浄道論のテキストはボリュームが多くなっています。
清浄道論にしても解脱道論にしても、智慧によって無常、苦、無我を知り、悟りへといたるプロセスが説かれています。
清浄道論の構成
で、清浄道論は23章からなる構成となっています。
- 第1章~第2章:戒清浄
- 第3章~第17章:心清浄・・・サマタ瞑想
- 第18章:見清浄・・・①名色分離智
- 第19章:度疑清浄・・・②縁摂受智(えんしょうじゅち)
- 第20章:道非道智見清浄・・・③思惟智、④生滅智:難しい
- 第21章:行道智見清浄・・・⑤壊滅智、⑥怖畏智、⑦過患智、⑧厭離智、⑨脱欲智、⑩省察智、⑪行捨智
- 第22章:智見清浄・・・遍作、随順、種姓、預流道心、預流果心(解脱)
- 第23章:慧修習の功徳
こんな感じですね。
清浄道論は倶分解脱者・慧解脱者の両方に適用できる
で、清浄道論は、見清浄から始まる智見清浄までの智慧の深まりと解脱へステップが詳細に説かれていることが白眉になります。
しかも、サマタ瞑想をする人にも、サマタ瞑想をしない人にも、どちらにも対応できるようになっています。つまり倶分解脱者、慧解脱者の両方に言及した瞑想マニュアル。
なのでテーラワーダ仏教圏では、禅定を作って観察して悟りますよーというグループと、禅定を作らず近行定だけでも解脱できますよーという瞑想グループの2つが成立しているわけですね。
非常によく考えられています。
しかも実践的。
こうした点が、テーラワーダ仏教の端倪すべからざる点なんですよね。
清浄道論の智慧の修行のステップ
で、その清浄道論の智慧の修行の中身は次の通りです。
見清浄
見清浄
- (1)名色分離智・・・本当の意味での「気づき」に開ける。気づきに気づく段階。
渡疑清浄
渡疑清浄
- (2)縁摂受智(えんしょうじゅち)・・・心がよくみえるー、心と体は勝手に生じているプロセスがわかる。縁起が見える。
道非道智見清浄
道非道智見清浄
- (3)思惟智・・・すべては変化している(無常)、思うようにならないことがわかる(苦、無我)。生滅のプロセスがわかようになる。
- (4)生滅智・・・心が生じるのがわかる、なんだか楽しい、ウキウキ。たのしい、よろこび、快適、ハッピー。
行道智見清浄
行道智見清浄・・・苦がわかる、心のネガティブさを感じことが多くなる段階。無意識の領域への気づき、自覚
- (5)壊滅智・・・心が消えていくのがわかる
- (6)怖畏智(ふいち)・・・何だかこわい、悲しい気持ち、不快な感じ
- (7)過患智(かかんち)・・・自分の欠点が見えまくる、全ては虚しい、役に立たないものだ~
- (8)厭離智(えんりち)・・・何だか嫌だなー、不快だなー、ダルいなー、ヤル気がなーい
- (9)脱欲智・・・何だか辞めたいな-、逃げたいなー
- (10)省察智・・・何だか苦しいなあ、瞑想がうまくいかないなー
- (11)行捨智(ぎょうしゃち)・・・何だか静かだなー、静寂だなー、中立の様。悟る直前の心。
智見清浄
智見清浄
- (12)遍作(へんさ)・・・準備
- (13)随順(ずいじゅん)・・・加速
- (14)種姓(しゅしょう)・・・手放す
- (15)預流道心・・・解脱
- (16)預流果心
このような16ステップです。
預流果になるとどうなるのか?
ところで預流果になるとどうなるのでしょうか。
- 有身見が根絶・・・「わたくし」があると思い込む、というのが根絶
- 疑惑が根絶・・・「あるがまま」が真理ということを疑い惑い関心も抱かない、というのが根絶
- 戒禁取が根絶・・・言葉や観念、教えに真理があると思い込む。何らかを体験した意識を悟りと思う、というのが根絶
- 嫉妬心、吝嗇心が薄らぐ
- 軽いサマーディ(初禅)が日常的になる
見解(認識)の煩悩である「三結煩悩」が根絶され、また嫉妬心や物惜しみの心が減るといいます。
また常にサマーディに入った状態になることが「増支部経典(三集 第五 一掬塩品 九二)」にもあります。
◆増支部経典 三集 第五 一掬塩品 九二
比丘衆よ、たとえば秋の時、晴れたる雲無き虚空において、日が青空を通過し、一切の虚空の暗黒を破りつつ、かつ輝き、かつ熱し、かつ照らす如く、比丘衆よ、まさにこれの如く、聖弟子に遠塵離垢の法眼が生じたときに(悟ったときに)、比丘衆よ、見(智慧)が生じるとともに、有身見、疑、戒禁取の三結は断ち切られる。
それだけでなく、貪と瞋の二つも脱す。彼は欲を離れ不善法を離れ(戒を身につけ)、「有尋、有伺、離所生の喜楽ある初静慮を具足して住す(初禅を得る)。
この文言は、禅の悟りそのものだったりします。
事実実物。
このことを、言葉を費やせば、「増支部経典 三集 第五 一掬塩品 九二」のようになるってことだったりします。
ちなみに「預流果(悟り)」と、一瞥体験や覚醒体験はまったく異なります。
ナチュラルスピリット社からは、覚者本が多く出ています。著者の皆さんは「悟った」といっていますが、これらは悟りではありません。まったく異なるんですね。
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