いわゆるスピリチュアルはよくない~意識が引き割かれる

ちょっと今日は批判的な記事になりますが。

こうした記事を書くのは、私のスタンスを示すためですね。

もしかすると人によっては心苦しい内容になるかもしれませんが、私の思う方針を示すため、したためてみたいと思います。
 

スピリチュアルな感性は大事にしたいと思っています。

またブログではスピリチュアルなことを書いています。

が、しかし昨今よく聞く
・風の時代
・ゲート
・二極化
などなどの言葉を多用するスピリチュアルはご遠慮です。

頭が痛くなるんですね。
意識が引き裂かれる感じも受けます。

で、率直に言うと、この手のスピリチュアルはよろしくないんですね。

「いわゆるスピリチュアル」ですが。

しかしこういうスピリチュアルが生き甲斐になったり、心の支えになっている人もいると思います。

なので頭ごなしに否定する気はないんですが。
 

が、「いわゆるスピリチュアル」は、本当のスピリチュアルじゃないんですね。

精神性を高めるスピリチュアルにはなりにくいんですね。

なぜならば、流行の言葉を使うスピリチュアルは、「スピリチュアル集合無意識」に共鳴して、そこから語っているからなんです。

自分の感性、自分の言葉では言っていないんですね。「受け売り」なんです。

誰かが言っていたから。
本に書いてあったから。

聞いたり、読んだりした「知識・情報・観念」を、右から左へと流しているんですね。体験がありません。

で、この手の有り様は、実質「いわゆる宗教」になっています。

端的にいえば「洗脳状態」です。

洗脳されているから、自分の言葉で言えないんですね。受け売りになってしまうんです。聞いたことや本の知識になっているんです。

この状態は意識が二分化して乖離している状態なんです。

乖離すると、必ず意識がフワフワして、自分の言葉で語れなくなります。

ほら、宗教にハマっている信者と同じでしょ?

ちょっと厳しいことを書いていますが。
 

大事なことは、地道に実践を続けていくいことなんですね。

浮ついた概念や観念に耽溺するのではなく、知識や思考の世界に漂うのではなく、地道な歩み・実践をしていくのが大切です。

で、スピリチュアルなことは、スピリチュアルなことをしていない中で開眼することが多いんですね。

たとえば善行を試行錯誤で続けている中で、思いも寄らぬかたちでスピリチュアルに開眼したり。

こういうことがあったりします。

なので地道な実践がオススメです。
 

おすすめなのは
・自己観察
・気づきの瞑想
・坐禅

こうした実践を続けて、ハートを大切にする日々を過ごしていると、心が高揚するようになり、そうなると自ずとスピリチュアル的なものに開眼します。

あとスピリチュアルなことを期待していてはなかなか開けません。

いったん脇に置いて、気にするのをやめることですね。

スピリチュアル的なことは、ハートに直結しています。ハートのある生活をし、なおかつ「気づき」が高まると、いわゆる「高次の意識」に開かれていくようになります。

そうやって地道に続けていると、ある臨界点に達すると、おのずと開眼します。
 

で、本当のスピリチュアルがわかるようになると、浮ついた言葉を使うことはなくなります。風の時代とか、二極化といった流行言葉に抵抗感が出てきます。

てか、流行言葉や概念は、「スピリチュアル集合無意識」から来ていることがハッキリとわかるようになります。

「スピリチュアル集合無意識」は迷いの次元であることもわかるようになります。

そうすると、自分の言葉で言うようになります。

いえ、自分の言葉でしか話すことができなくなるんですね。

乖離した特有の引き裂かれる感覚が弱まります。なくなります。

 
スピリチュアル集合無意識から言葉を出すと、意識は引き裂かれて、二分化します。本当のスピリチュアルに開けると、これが体感でわかるようになります。

いわゆるスピリチュアルにハマらないことがおすすめです。この手のものはエンタメですね。お笑いギャグと同じです^^; そういう扱いで臨んだほうがいいですね。

 
で、本当のスピリチュアルに開けることがおすすめです。

そのためには、
・自己観察
・気づきの瞑想
・坐禅

とハートの実践ですね。
これがおすすめです。

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