スピリチュアルは苦手だが好きでもある

スピリチュアルは苦手だが

スピリチュアル。
このブログでも結構、記事を書いています。

が、私は「いわゆるスピリチュアル」は苦手です^^;
が、「真のスピリチュアル」は好きですし、尊んでいます。

そもそもスピリチュアルには2種類あります。それは、

  • 真のスピリチュアル
  • いわゆるスピリチュアル

この2つです。
で、この2つは似て非なるものです。

私は「真のスピリチュアル」は尊重しています。

が、「いわゆるスピリチュアル」は苦手ですし、敬遠しています。ハッキリいえば毛嫌いしています^^;

このことは、過去にも何度が記事にしています。

いわゆるスピリチュアルはよくない~意識が引き割かれる スピリチュアルは覚醒(悟り)の妨げになる?

ま、毛嫌いというのは言い過ぎですが、「いわゆるスピリチュアル」はエンタメですね。娯楽。真剣に向き合うことはなく、半分茶化しながら楽しむ娯楽です。

「いわゆるスピリチュアル」に興味のある人にしてみれば、不愉快なことを言うかもしれませんが、これには真っ当な理由があります。

スピリチュアルとは霊的真理の普及運動

そもそも「スピリチュアル」とは「霊的真理の普及運動」をいっています。

このことは、19世紀のスピリチュアリストらの多くが明言しています。

たとえばモーゼス「霊訓」ですね。モーゼスがコンタクトしていたインペレータは、真のスピリチュアリストと、そうでない者とを厳然に区別しています。

恐るべきは真理からの逃亡者である「日和見主義者」である。自分と向き合うことをしないで、上辺だけの言葉を語り、心霊現象や神秘的な事のみを説く(現在にも多いスピリチュアル)かくの如き人種にまどわされてはならぬ。神の真理ゆえに迷うことがあってもならぬ。

偉大な霊ほど名声、地位、権力といった俗世的なものとは縁のない道を選んで人間に生まれ変わる。その生涯は平凡であり、人知れないことが多い。だから、その人が、偉大な霊の生まれ変わりであることはわかりにくい。

このように述べています。
で、これはその通りでしょう。
霊訓 ステイントン・モーゼスという霊媒師

真のスピリチュアルとは「自己観察」が基本

やはり「自分と向き合う」こと。つまり、自分を見つめる、省みること。自己観察、内観です。自分の心を、瞬間瞬間感じて、どういう動機で行い、どういう気持ちであるのかを感じ続ける。

これが「真のスピリチュアリスト」の姿勢です。

ちなみにモーゼスが言っている「名声、地位、権力といった俗世的なものとは縁のない道を選ぶ」というのは、若干違います。

ここの真意は「名声、地位、権力といった俗世的なものを『やたらと求める』生き方はしない」という意味ですね。

結果的に著名・有名になるのはいいんですが、いただけないのは自分を「やたら」と売り込んで有名になろうとする生き方ですね。これはスピリチュアル云々以前に腐臭を放ちますので、本能的に嫌われます。

モーゼスの言葉は、若干違いますが、「自分と向き合う」という姿勢こそが「真のスピリチュアリスト」の姿勢です。

真のスピリチュアルとは「真我」

で、厳密なことをいえば、モーゼスのスピリチュアルも、真のスピリチュアルではないんですね。

なぜなら、モーゼスも結局「アストラル界」だからです。

インペレーターという霊は、アストラル界の存在です。

真のスピリチュアルはアストラル界ではありません。

真のスピリチュアルは、コーザル界クラスです。

言い換えれば「真我」です。
これが真のスピリチュアルです。

いわゆるスピリチュアルは「アストラル界」

で、「いわゆるスピリチュアル」は、アストラル界です。

モーゼスの霊訓もアストラル界。

で、中でも非常に問題になるのは、低層アストラル界とリンクしているスピリチュアルです。

妄想、混乱、よどみ、不活発さが特徴です。

で、使っている言葉や姿勢、意識の有り様が「スピリチュアル集合無意識」から出ています。

自分の体験や体感から出ていないんですね。

あるいは体験や体感から言っていても、アストラル次元特有の迷妄感があります。

で、どちらも意識が「乖離」していて「スピリチュアル集合無意識」に同調しています。

で、解離した状態は、メンタル的によくないんですね。

スピリチュアルの8つの危険性~魔境・偏差・変性意識・乖離

スピリチュアル集合無意識とは?

「スピリチュアル集合無意識」というのは、たとえば
・風の時代
・ゲートが閉じる
・二極化
などなど、流行のスピリチュアル概念を飛ばしている集合無意識です。簡単にいってしまえば「流行」のことですね。

流行に乗じるように、スピリチュアルにも流行の言葉や概念があります。

で、乖離していると、いとも簡単に「いわゆるスピリチュアル」などの流行に乗ってしまいます。「スピリチュアル集合無意識」に乗じてしまう。

で、「スピリチュアル集合無意識」は一種の魔界です。ふわふわとしている魔境です。低層アストラル界ともいいます。

解離していると、この次元にすぐに飛んでいってしまいます。

これはよくないんですね。

この手の「スピリチュアル集合無意識」に同調するのではなく、自分の言葉、考えを大事にすることが大切なんですね。

スピリチュアルへの逃避は危険~スピリチュアル・バイパッシング

根拠の乏しいスピリチュアルはヤバい

ということでして、スピリチュアルは好きなんですが、苦手です。

真のスピリチュアルはいいですね。

でも「いわゆるスピリチュアル」は、うーんですね^^;苦手です。

妄想ではなく、自分が感じている体感、実体験が大切です。

妄想、空想、根拠の無い諸々は、いわゆるスピリチュアルですね。

で、仮に体験があっても、アストラル界とシンクロしているようでは、これはこれで問題もあります。

が、結局、「真のスピリチュアル」といっても「いわゆるスピリチュアル」と、同じに映ってしまうことも多いですからね^^;

で、ここにスピリチュアルの難しさがあります。

非常~に難しい。

ですので、ロジックがしっかりした発言をしているかなど、日頃の自分の言動が大事になります。

まとめ

普段から、根拠の無い妄想やメチャクチャなことばかり言っていたなら、そりゃ誰からも「悪い意味での変人」にみなされてしまいます。

普段はロジックがしっかりして、明確な根拠に基づく話しをしている。そういった「健全性」が大事ですね。

で、こうした有り様ですと、その人が語るスピリチュアルがたとえ理解不能であっても、「たぶん◎◎さんが言うことなので、本当に体験があるんだろう、何らかの根拠があるんだろうな」と信頼してくださるようになります。

「真のスピリチュアル」の道を歩む人は、こうしたことに非常に注意を払う必要もあります。

霊が見えるだの、霊がたたっているとか、先祖が浮かばれていないとか、根拠を確認できないことばかり言っているのは、真のスピリチュアルではありません。単なる「妄想スピリチュアル」です。

で、私が敬遠しているスピリチュアルとは、こうした根拠脆弱で迷信、迷妄、妄想を信じているようなスピリチュアルなんですね。

スピリチュアルにおいても、客観的に見つめたりエビデンスを大事にするなどの地に足のついた姿勢が望ましくなります。

このことは非常に大事なことですね。

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