幼少の頃、大自然の中に「なにか」を感じるケースは多かったりします。人によっては、その「なにか」を「サムシング・グレート」といっています。
私も小さい頃、「サムシング・グレート」を感じていました。で、この「サムシング・グレート」こそ、ハートで感じる「存在の本質」です。
いわゆる「それ」。
「大いなる存在」です。
で、これが鮮烈な体験として感じられるのが「覚醒体験」。「一瞥体験」もそうです。これは唐突に光明に啓(ひら)かれた瞬間に訪れる「ギフト」だったりします。
しかし、それは「サムシング・グレート」として感じられていたものだったりします。このことに気づくのに40年以上もかかった。
実は、日常的に当たり前のように、誰もが感じています。
知性は、「それ」を認識として体験し、空を感じます。
情緒は、「それ」をエネルギーとして体験し、崇高なる神の愛として感じます。
意志は、「それ」を存在として体験し、絶対、不動、忘我、無我として感じます。
全部、同じ「それ」ですが、感じ方に違いがあります。
「それ」は、「それ」自身が空を感じ、ハートを感じ、無我を感じます。空・愛にも知性と情緒があるといえば、驚くかもしれません。あります。
なので、無我であっても考えることができますし、感情もありますし、意志もあるわけですね。もっとも思考、感情、意志の扱い方が根本的に変わるのでしょう。
しかしながら無我だから、思考も生じない、感情も無くなる、意志も無いというのは、おそらく違うと思います。
サマディ(禅定)に入った特別な状態の無我ならば、思考も感情も意志も無いとなると思います。
この辺りが混同されていると思いますね。
また、禅やノンデユアリティでは、知性の認識と、愛(エネルギー)を遮断し、存在の無我のみからのアプローチを取ります。知性と愛とを遮断します。
で、禅のやり方は、厳密にいえば問題があると思います。やはり人は、知性があり、ハートがあるからです。
知性と愛とを遮断して、存在・無我だけの「悟り」になると、何もない、何も起きていない、善悪も無い、何をやってもいいといった極端なことも言い出してしまうわけですね。
で、この悟りを、ブッダは「外道」と言ったのだと思います。
「外道」の悟りとは、いわば途上にあるとも言えるのではないかと。空をエネルギーとして感じつつも、ハートを感じられない。存在の波動そのものが低いまま。
そう、存在の波動が低いことが、実は「悪」の本質であったりもします。善悪の本質は、善悪の観念よりも、存在の波動の有り様を言っています。
で、悪とはハートを欠いた状態だったりします。これ、すなわち波動が低い状態。全部、一致します。
今はハート・エネルギーがとても大事だと思います。保江邦夫さんは「アナハタ・プラーナ(気)」と言われていますね。
時代そのものが、ハートのエネルギーが高まっています。また、求めています。
こうしたことを述べているスピリチュアリストも多いですね。私も、そう感じています。とても不思議です。
ですが、それだけ、アナハタ・プラーナ(気)が、今、大事になってきているんだと思います。