ネティ・ネティという自己観察で真我に啓(ひら)ける
ウパニシャッド哲学には、今から約2800年前に「真我に達する方法」が具体的に登場します。それが「ネティ・ネティ」というやり方。「ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド」に伝承されています。
「ネティ・ネティ」は「それは真我でいない」といったように、心に浮かぶ諸々に対して、真我かどうかを見極めていく方法ですね。
で、「ネティ・ネティ」とはズバリ、自己観察のことだったりします。自己観察の本質そのもの。自己観察では、自分の心に生じるものが「エゴなのか、そうでないのか」を見極めていきます。
自己観察が真我にひらける王道というのは、ウパニシャッドに伝わる「ネティ・ネティ」をみてもわかりまして、過去および現在、自己観察で真我に啓(ひら)けた人が多いのも宜(むべ)なるかなと思います。
ウパニシャッドに伝わる「ネティ・ネティ」の方法とは?
ウパニシャッドに伝わる「ネティ・ネティ」の方法。
「ネティ・ネティ」は「【それは真我でない~】と観察しているとやがて真我が残る」と理解されています。が、これは形式的な理解だと思います。
そうじゃなくって実践においては、自らの心や本心本音・動機に対して、それがエゴなのかピュアなのかを感じ取っていくことになると思います。
で、これは自己観察になります。「エゴなのかピュアなのか」を感じ取るためにはシャープな感性や洞察力が必要になります。「雑」ではできません。
で、このエゴなのかピュアなのかを感じ取る感性は「気づき」ともいえます。「気づき」とは「感受力」でもあります。
テーラワーダの「気づき」でも真我にひらかれる
テーラワーダをはじめ、何故「気づき」が重視されるかとといえば、「気づき(シャープな感性と洞察力)」がありませんと、「真我」に気づけないからですね。真我は普段は気づかれにくくなっています。
自分の心を感じ取ることができないからですね。心を丁寧かつシャープに観ていると、真我的な意識にひらけます。しかし感受力と洞察力がシャープになると、普段は気づきにくい「真我」に気づくときがやってきます。これが真我探求の本質だと思います。智慧のヨーガ(ギャーナヨーガ)。
自分の心を感じ取り、心を丁寧かつシャープに観ていくと、何故、真我にひらけるのかといえば、こうした理由があるからですね。
で、仏教では真我的な意識を足場にして「何もしない」という有り様にいたり、そうして悟りへ向かうというプロセスを取っているんじゃないかとも思います。
真我にひらける自己観察の本質は「感受力」。シャープな感性と洞察力によってブレイクスルーしやすいと思います。
原始仏教の「慚愧」とは「気づき」のこと
原始仏教では「気づき」を別の言い方で表現もしています。それが「慚愧(ざんき)」です。ヒリ・オタパ。
・慚・・・恥を知る心
・愧・・・悪を怖れる心
https://pao.hamazo.tv/e5605654.html
これの本質は感受力ですね。「気づき」。エゴなのかピュアなのかを感じ取るセンスです。
慚愧(さんき)は「善いこと悪いこと」という勧善懲悪的な説明がされやすいのですいが、本質はそんな単純な話しではなく、感じ取るセンスのことを言っていると思います。「気づき」です。
自己観察は真我探求
で、自己観察は真我探求とも言えるわけでして、ウパニシャッドやアドヴァイタ、クリシュナムルティなどなど世界中で「観察」が言われていますが、その本質は「感受力」「自覚力」ともいえると思います。テーラワーダ仏教の「気づき」もそうですね。
で、感じ取ることができなければ自己観察にしても真我探求にしても進まなくなります。また無我の道(悟りの道)である「あるがまま」が正真正銘の「あるがまま」となるためにも「気づき(感受力)」がバースになると思います。
真我から悟りへ。その真我は感受力、自覚力、気づきといった感性によってひらけるということじゃないかと思います。
鈍感なほうが生きやすい
ちなみに世の中で生きていくに当たっては、鈍感なほうが生きやすいですね。「運鈍根」とか「鈍感力」という言葉もあるくらいでして。雑なほうが生きやすいのは確かだと思います^^
ところが真理や正真正銘のスピリチュアルになると、鈍感では太刀打ちができなくなります。なので「気づき」をシャープにしていく必要もあるんだと思います。
しかしながら真理の道か世俗での栄光かは、分水嶺になるところかなあと思いますが、できることなら両立できるといいですね^^
が、一朝一夕ではありませんが両立は可能性はあると思っています。その可能性こそハートエネルギーですね。慈悲、受容力です。ハートは善や徳の源泉でもあり、ここに開かれていく大事な経路です。
ハートという感受力
が、ハートは繊細であり、実のところ感受力(気づき)とも関係があります。ややこし説明になっているかもしれませんが要するに
気づき(感受力)
受容力(慈しみの力)
が大事でして、実のところ不即不離のセットになっています。
で、これを見事にセットにしているのがルアンポー・ティアン派の瞑想でして。ルアンポー・ティアン派はアビダルマなどの教えを基にて作られた瞑想ではなく、体験がベースになっている珍しい瞑想システムだったりしますね。