知識を身につける学習
今は独学がしやすい時代ですね。
このことは、こちらでも書きました。
近年、私はが学習していることはほぼすべて独学です。歴史、経済、音楽、身体技法、ヨーガ、気功、仏教、運命学などなど。
もちろん師や先生からも教わっています。
独学と指導の両方ですね。
ちなみに瞑想の仕方などは全て教わっています。
しかし知識としての仏教はほとんど独学です。
知識としての仏教は、とにかくいろんな仏教書を多読しました。そうしている中でだんだんと優れたテキストも分かってきます。
仏教の場合は原始仏教(初期仏教)です。
仏教のルーツであり元祖ですので、ここから学ぶのが鉄則でしょう。
知識としての学習は宗教的真理には達しない
ところで知識としての学習は、所詮、知識としての学習に終わります。
本当に大切なのは、身体感覚に根ざしたものを身に付けていくことだと思っています。
身体感覚に根ざした感性に目覚めてこそ、初めて「思惟分別の超越」といったことも可能になると思っています。
仏教でいうところの「禅定(ジャーナ)」あるいはもっと進めた「智慧(プラジャーナ)」です。本当の意味の「思惟分別の停止」は、こういった「心の発達」の向こうに得られると思っています。
もっとも「発達」という言い方は、実は適切ではありません。「心の次元の超越」「心が作用するマインドの世界とは異なる次元への開眼」という言い方のほうが適切でしょう。
知識が増大すれば価値判断が無くなる?
ところで最近では、「ネットを使えば学校は不要」といったことを言っている識者も出てきています。
このことは指摘されるまでもなく、実感として同感です。異論はありません。そうした記事も私も書いています。
ところが、その識者は「『ネット独学』の行く先は『価値判断の仕方が変わる』ことだ」と予想もしています。さらに「価値の判断も終わる」とかいっています。
しかしこれは少し違うと思います。
知識としての独学を行ってくと、一律基準の価値判断が乏しくなっていくということですね。
知識が多くなると、多面的に物事を見ることができようになります。
この多面性が、画一的な見方や一定方向のバイアスのかかった見方を排除するようになります。
で、この意味において「価値の判断が終わる」ということなんですね。そういうことです。
で、これを言い換えれば
「無数の価値判断が出てくる」
「何が正しいとか悪いとかが明瞭でなくなる」
ということになりますね。
社会通念的に正しいは本当に正しいのか?
知識が増えるにしたがって、多面的な見方をするようになり、その結果、多くの価値判断が生じ、どれが正しいとか悪いとかの判断が難しくなり、一つの見解に至ることもしにくくなるというのは、確かに、その通りだと思います。
善悪の概念にしてもそうです。
もっとも、善悪には、社会通念的に「これは正しい」と思わされているものもあります。
たとえば、近代の貨幣システムのバックボーンとなっている資本主義なんかその典型です。
資本主義は自由競争であり、自由な経済であるといわれています。
で、これが、一応「正しい」とされています。
けれども実態は、銀行家や資本家といった一部の特権階級や富裕層に、莫大な富が集まるようになっているシステムだったりしますね。で、これを、資本主義といっています。しかも経済学にもなっていて学問にもなっています。
学校でも教えていますので、あまり考えないでそのまんま受け止めていますと、「資本主義でいいんだ」なんて信じてしまうこともでてきます。
けれども、実態は、弱肉強食といった動物同じ奪い合うレベルの競争原理に貫かれた野蛮な経済システムなわけですね。見方を変えれば、人道主義にももとる経済システムです。
が、「これでいんだ」「これが正しい」「人間の行為は醜いものだ」「きれい事は言っていられない」といったカオスな洗脳により、人々は抗う気持ちをくじかれて、資本主義を受け入れている面もあったりもしますね。
多面的な見方が画一的な見方に疑義を呈する
話しが資本主義の是々非々になりましたが^^;、いえいえ私は決してナントカ主義を信奉している者ではございません(笑)。わかりやすい一例として資本主義を取り上げたまでです。
で、結局、資本主義に対する見解もそうですが、「みんながいいと思っているからいいんだ」ということに、一石を投じ、「ちょっと待てよ?」と疑義を呈するのが「多面的な物の見方ができるかどうか」といったことになります。
ですので、最初の話しに戻りますが、独学などによって学習が深まり、知識が多くなりますと、人は多面的な見方をするようになります。
こうした一方方向からの見方だけに止まることが少なくなって、いわゆる「バランスのある物の見方」ができるようにもなっていきます。
知識と宗教上の「思考停止」は異なる
ところで、こうした知的な多面的な見方の延長に、宗教上の「思考停止」「思惟分別がなくなる」ことが出てくると提言する人もいらっしゃいます。宗教的な真理にすら達するということですね。
ところが知識が増大することによって生じる「思考停止」と、宗教上の「思考停止」は全く異なります。性質が、次元が、全然違います。
知識が膨大になって、一定の判断が下せなくなる「思考停止」は、AI(人工知能)にもできます。しかし、これはどこまでも「意識・思考」の次元です。いわゆる「解が得られない」といった「答え」です。
ところが宗教上の「思考停止」は、そうした思惟や思考を超越した次元で体感されるものです。頭脳で理解できる「答え」といった言語、観念、概念ではありません。
しかし、知識人は、ここを勘違いしてしまうことが往々にしてあります。
多面的な見方の思考停止とはカオス
知識としての独学などを続けると、確かに思考停止といいますか、価値判断の仕方が変わってきます。判断も洗練もされていきます。
けれども、これは、それぞれが憶えたことや習ったことが多面的かつ複層的になるため、「何が正しいのか悪いのかがわかりにくくなる」からです。どの答えを出せばよいのかの判断ができなくなるという性質です。
で、これは結局、「カオス」ということです。
ワケがわからなくなるのですね。
ワケがわかならくなって価値判断が多様化して思考停止が起きたりするわけですね。
しかし頭脳だけで考える知識人は、こういった「思考停止」を宗教上の真理と同じ次元の「価値判断が無くなる」こととして評価することがあります。
宗教上の「価値判断が無くなる」ということと、混乱としての「カオス」を同じとしてしまうわけですね。
このことは、教育における価値の多様化から生じる「思考停止」と、身体感覚を発達させた認識から生じる「思考停止」とは「異なる」ということにも通じます。これらは根本的に異なります。
全然、異なります。
宗教上の思考停止と知識・学校
このように
知識としての思考停止・・・知識の増大により多面的な見方ができるようになり、一定の見解を下しにくくなる
宗教上の思考停止・・・心や思考の次元を飛躍した領域からもたらせる智慧、発達した身体感覚から生じる「思考停止」
と分けることができます。
宗教的な真理を最上とするのは、その通りです。
けれども、やはり知識は大切です。
知識は、この現実世界を生きていく上で有益なツールとなり得ます。
社会ルールも知識です。
社会ルールがありませんと、この世界は混乱に陥っています。犯罪も多発してしまいます。だから知識は欠かせません。といいますか、知識を習得することが必要です。
だから「教育」なんですね。
学校教育。
教育は学校のような「マス教育」も大切です。
知識を均等に教える基盤(学校)は必要です。
そして、この基盤(学校)の延長に、独学をするのがいいと思いますね。
何でもゼロから憶えられる人はいません。
これができる人は、そういう天才的な資質のある人だけですね。
普通人は、基礎知識が必要です。
ですので教育では学校は必要ですね。
学校をまったく無意味とするのは、さすがにナンセンスです。
極論に陥っていて、極端過ぎますね。