キリスト教の「聖霊体験」はハートの覚醒体験のこと
キリスト教のプロテスタントでは「聖霊体験」というのを認めています。
聖霊体験については、以前こちらでも書きました。
キリスト教の聖霊体験と意識の多層構造 聖霊体験とは愛の目覚めるキリスト教の覚醒体験・宗教体験 キリスト教で聖霊体験が起きるには思考と妄想を克服する必要がある
聖霊体験は、いわゆる「ハートの覚醒体験」のことになります。ハートの覚醒が、キリスト教信仰の文脈で起きると、聖霊体験といいます。
聖霊体験は信仰の証・恵み
しかし、キリスト教では、聖霊体験を「神を感じる貴重な体験」「信仰の証」「恵みの体験」としているようです。
本来の「ハートの覚醒体験」の意味を、キリスト教のドグマに取り込んで独自に解釈をしてしまっています。ここはちょっと残念。
ですが、キリスト教プロテスタントにとって聖霊体験は、メインストリームにはならないようです。
聖霊体験は信仰の証や恵みにはなりますが、信仰のメインは、聖書に従い、イエスを信仰し、神からの恵みと神の栄光を信じる。これらがプロテスタントのメインストリームになるようです。
聖霊とは誰もが内在している徳エネルギー
聖霊を、瞑想の文脈でいいますと、「誰もが内在している徳のエネルギー」「誰もがつながっている宇宙の根源」といった言い方ができます。
あるいは「聖霊」とは、宇宙の根源のはたらきを助ける人間界にいる「善霊」という言い方もできます。これはあくまで「たとえ」です。
本当は、聖霊体験こそハートの体験であって、信仰以上に大切になるわけですが、悲しいかな、これは逆転しています。
で、祈りとは、聖霊(ハート)を感じて行うことが本来の祈りになりますね。
煩悩・原罪にフォーカスする
ところで仏教では、聖霊(愛・慈悲エネルギー)とは別に、「煩悩」にもフォーカスしています。
煩悩は、もしかするとキリスト教でいうところの原罪に近いのかもしれません。ただ原罪は、もっと行為にフォーカスしていますので、煩悩とは異なりますね。
しかしながら視座を高くして、原罪も煩悩も同じネガティブなエネルギーとするならば、こうしたネガティブに分類される心なりが、宇宙の根源といいますか生命本来の有り様から、人を遠ざけてしまっていますね。
キリスト教で原罪と言っているものを瞑想的に解釈すれば、悪いエネルギーに対して無自覚になっている人々に自覚させるために「原罪」を言い出したともいえます。
これは瞑想的な文脈での解釈ですからね。キリスト教的な解釈とは異なります^^;
しかし原罪にしろ煩悩にしろ、瞑想では「気づく」「自覚する」というのは大切になってきます。
これも「気づき」といえますね。「皆さんには悪しき心がありますよ~、無自覚になってはいけませんよ~、気をつけてくださいね~」といったのが、原罪という概念の始まりだったとするのは、瞑想的な理解の仕方です。
禁断の実は知性への偏向を示す寓話
あとイブが禁断の知恵の実を食べる話しを瞑想的に解釈するならば、この寓話は、人間が思い・思考・観念にとらわれてしまって、宇宙の根源・生命本来の有り様がわからなくなった例えにもなると思います。
実際、思い・考え・思想にハマればハマるほど、人は迷いと苦悩に陥っていきます。不幸になっていくんですね。このことは瞑想を続けていれば、体感としてわかるようになってきます。
キリスト教は「知性の偏りすぎ」を「禁断の知恵の実」といい、「煩悩の過多」を「原罪」と言っていたのかもしれませんね。
瞑想を続けていきますと、宗教的な教えの成り立ちや本質もわかるようになってまいりますね。
祈りも大切だが瞑想も大切
で、祈りもよいことですが、瞑想も大切ですね。
瞑想は祈りに似ています。が、瞑想は気づき(洞察する力)を高めます。で、気づき(洞察)によって、自分が気づかなかった様々なところに気づくようになり、これが自己変容を引き起こすようになっていきます。
残念ながら、祈りだけでは変容は起きにくいんですね。
そもそもキリスト教神秘主義の暗夜における祈りは「内観(自己観察)」です。自己変容を引き起こすアプローチには「気づき」が入ってまいります。クリシュナムルティも自己観察で覚醒しています。
で、聖霊体験も実は、自己観察が引き起こします。