聖霊体験はキリスト教における宗教体験
キリスト教は「解釈の宗教」です。理解の宗教とでも言っていいですね。なんといっても「イエスの死と復活」を信じることが中核にあるからです。シンプルに神なりイエスを信仰する宗教ではありません。
しかしそんなキリスト教でも「体験」を重視しているのがあります。それこそが「聖霊体験」。聖霊体験とは「愛(隣人愛、神への愛)」に目覚める覚醒体験、宗教体験です。
キリスト教では、イエスが神にお願いして地上に使わせた聖霊(神の霊)の働きと恵みによって、強烈な愛が自らの内側からわき出る体験と言われているようです。
聖書の使徒言行録にある「ペンテコストの奇瑞」が最初の聖霊体験かもしれません。
しかし、これらの意味としての聖霊は少々疑問もあります。なぜなら聖霊には6種類の意味があるからです。
聖霊は6種類ある~聖霊は冒涜をゆるさない?:6種類の違いを知るのが大切
本当の意味での聖霊とは「ハートの覚醒」を言っていますね。
しかしながら聖霊体験はキリスト教の信仰者として大事な体験であり、神に召される証であるといいます。ちなみに本当の聖霊体験は見神体験でもありますね。
聖霊体験としてのペンテコストの奇瑞
聖霊体験は、最初に書いたように「ペンテコストの奇瑞」が知られています。
ペンテコストの奇瑞では500人が一度に聖霊体験をしたとあります。けれども使徒言行録は話しを持ったり粉飾している可能性もあるため、ペンテコストの奇瑞をどこまで信用できるのかは微妙なところでしょう。
聖霊体験の具体例
またパウロの体験は幻視体験ですので、聖霊体験とは異なると思います。
パウロは復活したイエスに遭った?~イエスの姿を幻視したアストラル体験
聖書の記述は、虚実が入り乱れている感もありますので、あまり信用が置ける体験ではないと思います。むしろ体験の記述がはっきりしている、
- キリスト教神秘主義・・・「照明体験」
- ルター・・・「塔の体験」
- カルヴァン・・・「突然の回心」
こうした体験は聖霊体験、見神体験になります。キリスト教神秘主義における照明体験は間違いなく聖霊体験になりますね。
ただしルターやカルヴァンの体験が聖霊体験なのかは微妙ですが、可能性としては考えられます。
あと明治の頃のクリスチャンだった綱島梁川(つなしま-りょうせん)も見神体験(聖霊体験)をしています。
明治の宗教思想家・綱島梁川の一瞥体験を記したのが「予が見神の実験」
他にも類する神秘体験はあります。例えば聖イグナチオの体験ですね。しかし幻視体験でもありますので微妙なところがありそうです。
聖霊体験とは「愛に覚醒する宗教体験」になります。ですので単なる神秘体験とは異なりますので、限られてくるのではないかと思います。
聖霊体験はキリスト教の信仰者のみに起きる?
ちなみにユダヤ教にも聖霊体験があるとか?しかしユダヤ教の聖霊体験は、おそらくチャネリング(預言)のような体験ではないかと思います。
キリスト教における「聖霊体験」は、イエスが天に召した後、イエスが使わした「聖霊(神の霊)」によって、愛の目覚め体験が起きることを「聖霊体験」といっているようです。
聖霊体験とは、いわば「キリスト教を信じている人のみに起きる体験」。
けれどもこれは「ドグマ的な解釈」になりますね。聖霊体験と言われる「愛に目覚める体験」は、果たしてキリスト教特有のものなのでしょうか?
聖霊体験はキリスト教特有の体験ではない
答えを先にいえばNoです。
「聖霊体験」は、仏教、ヒンドゥ教、ヨーガ、気功、神道、イスラム教、スピリチュアルなどなど、精神的な世界でも起きています。何もキリスト教の特権や特徴ではありません。
クリスチャンであろうとなかろうと、愛の活動に生きようとする者のハートが覚醒する体験、それが「聖霊体験」ですね。
イエスが神に使わした聖霊による賜物ではありません。
実際、それほど熱心でない人のほうが聖霊体験が起きているんですね。聖霊体験も「名も無き人」に起きやすい様子。で、体験が起きてから牧師や神父になったり熱心なクリスチャンになることが多いようです。
崇高なキリスト教徒【テルトゥリアヌス護教論より】~社会的困窮者の救済にいそしむ
むしろ、「聖霊とはイエスが残したもので、キリスト教を信仰する人のみに起きる」とするほうが、危うい思想になります。
実際、キリスト教初期の神学者だったアウグスティヌスは、「キリスト教を信じていない人の上にも聖霊体験は起きる」といったことを言っているとか。で、これが正しい見解になりますね。
現代における聖霊体験とは?
聖霊体験の伝聞を見聞しても今ひとつピンと来ないかもしれませんね。そこで現代における聖霊体験をご紹介します。
言葉が引き金となって愛に目覚める聖霊体験
たとえばこちらの牧師さんが、ご自身の聖霊体験をお話しされています。
「私を愛するか」という言葉が引き金となって愛を如実に顕現。その後、聖書の理解がまったく異なり、聖霊体験をしたあとは、聖書の言葉が理解できるようになったと言われています。
ご自身の体験をお話しになるときに涙ぐんでいますが、お気持ちはとてもよくわかります。
エネルギー体験としての聖霊体験
聖霊体験にはバリエーションがありますが、たとえばこちらの牧師さんは次のような体験をされています。
「川の水が体にぶつかり、池の水が吹き出て、火が体にくだるようでした。驚くべき霊的体験をしました」 これが聖霊による洗礼。聖霊体験。
ちなみにこの体験は、エネルギー体験そのものです。
後述しますが、これらの体験はハートのエネルギー体験になります。ハートのエネルギー体験。そうです、聖霊体験とはハートのエネルギー体験をいいます。
聖霊体験とはハートのエネルギー体験
「聖霊」は、キリスト教においては実在する存在といいます。が、ハート・エネルギーのことですね。
キリスト教を信仰していなくても、上記の牧師さんと同じような体験をしている方はいます。
また最初にも書きましたが、それほど熱心でないクリスチャンでも聖霊体験をしています。
信仰の有無は関係ありません。むしろ親切心や愛の心の有無が重要です。
けれどもキリスト教の文脈で「ハート・エネルギー」といえばひんしゅくを買うと思います。また受け入れることはできないと思います。が、本質はハートのエネルギー体験ですね。
聖書はハートのエネルギーを覚醒させる?
で、聖書は、虚実が入り乱れた創作文書なことは否めません。が、ハート・エネルギーを体現しているイエスの言行を残してはいます。たとえば、マタイ福音書には「たとえばなし」として数多く残っています。
なので聖書を読んでいると、ハート・エネルギーが起動しやすくなるところはあるかもしれません。
ただ聖書はドギツイ表現も含んでいます。なので聖書を読まずに、シンプルに信仰をして、シンプルな教え(隣人愛ひとつ)だけを実践している素朴なクリスチャンに起きやすいように思います。
あるいは非常に苦しみ悩んでいる方。その苦しみがジャンピングボードのようになって愛の目覚め体験が起き得ます。
またハート・エネルギーが起動しやすい高波動に包まれた空気感と、そうした高揚する空気の中で「とりなしの祈り(他者のしわせを祈る)」を行うことで、ハート・エネルギーが覚醒しやすくなっています。
ただしキリスト教を信仰していなくても起きます。クリスチャンに限った体験ではないということですね。本質はハートの目覚め体験だからです。
神(真理)を求める。祈り。この2つがハートが開眼させる、知られざるメカニズムにもなっています。別段、キリスト教を信じていなくても起きる「普遍的な目覚め体験」です。
「御顔を知る」意欲は大切
聖霊体験、つまり「ハートの目覚め体験」は、愛に目覚める体験です。
で、「愛」という言葉の向こうにある「高次元の愛」が一体どういうものなんだろうかと求めていると(御顔を知ろうとすると)、愛(ハート・エネルギー)の目覚めが起きやすくなります。
大事なことは、言葉だけを追うのではなく、言葉の向こうにある真実・愛・神の実態を「知りたい」「どういうものなのか」と考え巡らす、意欲を持つことですね。
この姿勢のことを「御顔を知る(知りたい)」と言うようです。
聖霊体験の真髄は「トマス福音書」にある
ちなみに聖霊体験は、「トマス福音書」3節の中でイエスが言っている「神の国はあなたがたの中にある」のことになります。
トマス福音書 3節
「神の国」はあなたがたの中にある。自分自身を知るならば、それ(神の国)がわかるであろう。そして自分が生ける父の子らであることを知るであろう。
トマスによる福音書~真我を説くヨーガ的なイエスの教えに驚愕!
こにおイエスの言葉は、聖霊体験を包括した真我体験を指しています。
「トマス福音書」は正統派は異端としていますが、端倪できない「聖霊体験の真髄」が語られています。
偽の聖霊体験(アストラル次元での神秘体験)
なお聖霊体験といっても偽の体験もあります。紛らわしい聖霊体験ですね。それは、
- 思い込み、妄想、ヒステリー、暗示による一時的な変性意識(催眠)
- 認知の弱さに起因する誤解や誤認
- 邪霊が関わった憑依体験
があります。これらはアストラル次元で起きている神秘体験です。一言でいえば妄想による勘違いや低級霊が関わった体験ですね。
認知が弱いと、これらを適切に判別・識別できなくなります。認知の弱さが真の原因になります。
聖霊は6種類ある~聖霊は冒涜をゆるさない?:6種類の違いを知るのが大切
思い込み、妄想、ヒステリーによる一時的な変性意識
思い込み、妄想、ヒステリーによる一時的な変性意識というのは、催眠でもあって、虚栄心や自我の肥大化や気分の高揚によって自己暗示にかかり、白昼夢、幻覚、幻視、幻聴を引き起こす現象です。
妄想になりますが、アストラル次元で起きている現象だったりします。
マルクスの聖霊体験
エイレナイオスが伝える「マルクス」の聖霊体験というのがあります。
これは2000年前の当時「マルクス」という預言者がいて、下層身分の女性達に暗示をかけて、その気にさせて、異言を語らせたり、でたらめな預言を言わせていた神秘体験です。
この体験は、まさに「思い込み、妄想、ヒステリー」による自己暗示であって、変性意識です。現代のスピリチュアルにも多いんですね。
認知の弱さに起因する誤解や誤認
認知の弱さに起因する誤解や誤認というのは、判断力や知性の弱さのため、自分の身の上に起きていることを、冷静かつ適切に理解することができず、妄想を現実と思い込んでしまうことになります。
全ての「偽の聖霊体験」の真因といってもいいほどで、結局、きちんと見分けがつかない判断力の弱さに原因があったりします。
邪霊が関わった憑依体験
邪霊が関わった憑依体験は、低層アストラル次元で起きる霊的な現象です。2000年前には、キリスト教に「モンタノス派」が登場し、憑依現象を聖霊体験と言っていたようです。
神秘現象が起きる
このような「偽の聖霊体験」であっても、異言(でたらめ言葉)、預言・啓示(チャネリング)、幻視(ビジョン)、幻聴などの神秘的な現象を引き起こします。
また「聖霊から霊感を受けている」「聖霊から力を得ている」と確信したりします。
しかしこれらは偽の聖霊体験になります。
偽の聖霊体験を見分ける「霊の識別」は重要
結局、偽の聖霊体験を見分ける「霊の識別」は大事になってくるということですね。聖霊体験には、
- 高次意識による本当の聖霊体験・・・コーザル次元での体験
- 妄想が絡む偽りの聖霊体験・・・アストラル次元での体験
- 低次の霊が関わった偽りの聖霊体験・・・低層のアストラル次元での体験
このいずれなのかを判別・識別することが非常に重要です。
これは日本では「審神者(さにわ)」といっていますね。
聖霊体験は尊い体験
キリスト教はさまざまな問題もはらんでいます。
それ故に、キリスト教の成立の歴史、聖書の中身などを知ると、びっくりしてしまいますが、しかしこうしたことを知らないほうが純粋かつシンプルに信仰ができるのかもしれませんね。
そんなキリスト教ですが、唯一といっていいほど貴重かつ大切な宗教的な直接体験こそ「聖霊体験」ですね。
聖霊体験があるがゆえに、キリスト教はさまざまな問題があったとしても、人間の精神性を高める意義のある宗教としてみなすことができると思います。
また問題をはらむ人間臭い宗教であるが故に、キリスト教では「聖霊体験」といわれるハートの覚醒体験が時々起きているんじゃないかと思います。
俗から聖へと切り返したいという強い欲求、モチベーションが、ハートの覚醒をうながす。
しかし何度も言います通りで、「聖霊体験はキリスト教特有のもの」ではありませんね。他でも起きている体験です。
それにしてもキリスト教をしっかりと学んだお陰で、聖霊体験のさまざなこともわかるようになったものです。
といいますか、聖霊体験がどういうのかを知りたくて、キリスト教を調べるようになったものでした。大きな収穫を得ることができました。