聖霊は冒涜をゆるさない?
新約聖書(福音書)を読んでいると、おそろしい文言によく出会います。その恐ろしい文言の中でも飛び抜けて恐ろしいのは「聖霊は冒涜を決してゆるさない」という記述です。
ひょえ~~~~ってなります。
けれども聖書やエイレナイオスの書を読んでいると、聖霊には6種類あることがわかります。このことは後述します。が、「冒涜をゆるさない」聖霊というのは気になりますよね。
福音書に伝わる怖い聖霊
で、最初に、その恐ろしい言葉をご紹介すると、次の通りです。
人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。
はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。
人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。
イエスは言われた。父を冒涜した者は赦されるであろう。そして子を冒涜した者は赦されるであろう。しかし聖霊を冒涜した者は地上でも天でも赦されないであろう。
共観福音書の3冊すべてに記述。もっとも共観福音書だけなら創作かなあと思えてきます。
しかし「トマス福音書」までも伝承していると本当なんでしょうね。ビビってしまいます。
ちなみにトマス福音書は「外典」といわれています。が、イエスの本当の言葉を伝えていますね。
トマスによる福音書~真我を説くヨーガ的なイエスの教えに驚愕!
そんなトマス福音書なんですが、聖霊に関する文言は44節(聖霊を冒涜すると許さない)だけです。他には聖霊の記述はありません。なので重みが出てくるんですね。
怖い聖霊は共観福音書のすべてにある
で、「聖霊は冒涜をゆるさない」を整理しますと、
- 聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。【マタイ福音書 12章31-32】
- 聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う【マルコ福音書 3章28-29】
- 聖霊を冒涜する者は赦されない。【ルカ福音書 12章10】
- 聖霊を冒涜した者は地上でも天でも赦されない。【トマス福音書4節】
ちょっと怖いですね(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル。
赦さない聖霊とは精霊さんのことだった
ちなみに結論を先に書いておきますが、福音書にある「冒涜をゆるさない聖霊」とは「精霊」のことになります。
聖霊ではなく「精霊」ですね。精霊さんとは、日本の精霊でいえばお稲荷さん、みーさん(蛇神さま)、聖天さまといった霊的存在です。
結婚してみたら奥様は「超霊媒」だった!~精霊と動物霊との違いもわかる本 お稲荷さんと霊能者~オダイに生き抜いた霊能者の物語 龍神の性格~原始仏典に登場する龍神は気性の激しい善悪神
「精霊」とは、人間の世界にもっとも近いところにいらっしゃる霊的存在ですね。
「精霊」は約束を破るとお怒りになる
精霊さんは、約束を違えたり、守らなかったりするとお怒りになることがあります。お互いがWin-Winで「持ちつ持たれる」の関係になる霊的存在が精霊さんです。
この「精霊」さんと、福音書が伝える「聖霊」は性格が似ているんですね。で、この「精霊」さんのことを、福音書では「聖霊」と言っています。
初めて見聞すると「え?」と思うかもしれません。そこで以下、くわしくご説明いたします。
聖霊には6種類ある
そもそも「聖霊」といっても、キリスト教には6種類あることがわかります。それは、
- 冒涜すると決して許さないという恐ろしい霊的存在・・・聖書(福音書)と外典「トマス福音書」にある
- イエスが神にお願いして使わした神の霊・・・聖書(福音書)にある霊的存在
- 気力に満ちること・・・聖書(福音書)にある表現
- 妄想としての「聖霊体験」・・・思い込みによる言動
- 邪霊による「聖霊体験」・・・精霊や邪霊による憑依体験
- ハートエネルギーの目覚めとしての「聖霊体験」・・・本当の聖霊体験
この6種類ですね。
1.冒涜すると決して許さない聖霊
これが怖い聖霊になりますね。先述の通りで、福音書に伝承があります。聖書とトマス福音書の両方にあります。
ここで述べている「聖霊」については後述します。
2.イエスが神にお願いして使わした聖霊
これは福音書(特にヨハネ福音書にくわしい)に出てくる聖霊です。
地上に使わされた神の使者(聖霊)ですね。神と等しい存在。
一般的にキリスト教で「聖霊」というときは、この意味の「聖霊」が使われます。ヨハネ福音書14章16節ー19節にある「精霊」ですね。
ただ実態がよくわからないため、実際は「観念的な存在」になっています。そういう存在がいるであろうという観念的存在ですね。思いです。
三位一体論も観念論
ちなみにずっと後になってから三位一体論(父=子=聖霊)の教義が作られます。
で、三位一体論は、異端対策として考案された知的見解です。実際に父=子=聖霊ではありません。
唯一神を立てている以上、父、子、聖霊と3つに分かれているのはおかしい。だったら父=子=聖霊にしようということで取り決めた知的教義です。
実際に父=子=聖霊ではないんですね。もっといえば妄想的観念です。
ヨハネ福音書はトマス福音書に対抗して創作
で、このことは聖書(ヨハネ福音書14章16節ー19節)にあるイエスが神にお願いした遣わせた神的存在(聖霊)というのも同じ。想像で作り上げた教えです。
そもそもヨハネ福音書は、「個々の中に神がいる」「万人が神の子」と説く「トマス福音書」に対抗して作り上げた創作文書です。このことは聖書学者のエレーヌ・ペイゲルスが「禁じられた福音書」の中で詳説しています。
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ヨハネ福音書はトマス福音
で、聖書の一節(ヨハネ福音書14章16節ー19節)にある通りが本当で、イエスが遣わした「聖霊」が、もしも実在するなら、それは霊的ロジックからいって「精霊」になります。
普遍的な霊的存在であるならば、たとえイエスのお願いであっても、個人の意図通りには動きません。個人の意図に従って動くのは「聖霊」ではなく「精霊さん」です。人間に近い霊的存在の精霊。
で、実際のところは後述する通り、普遍的なハートエネルギーです。普遍的なハートエネルギーを聖霊といっている可能性がありますね。
3.気力に満ちること
これはルカ福音書や使徒言行録に出てきます。布教したり、教えを弁護する際に力がみなぎることを「聖霊に満ちている」といっています。
たとえば使徒言行録4章8節「ペトロは聖霊に満たされた」などです。
これは「力がみなぎった」「気力に満ちた」ことですね。その様を「聖霊に満ちた」といっています。
4.妄想としての「聖霊体験」
あと妄想としての「聖霊体験」があります。これは「思い込み」ですね。昔は「ヒステリー」といっていました。
あるいは認知の弱さ(判断力の弱さ、知性が弱い)ことからの誤認。または「変性意識」です。白昼夢や幻覚・幻視がそうですね。
異言(でたらめ言葉)、預言・啓示(チャネリング)、幻視(ビジョン)、幻聴といったのがあります。
これらの体験の中には、高次の意識からもたらされる真実の体験もあります。が、ほとんど多くはアストラル次元で起きている妄想体験だったりします。
で、この手の体験は現代のスピリチュアルにも多くみられます。といいますかスピリチュアルはこの手の話題や体験であふれかえっています。
パウロが見たイエスの幻視体験もアストラル体験
ちなみにパウロが見た「イエスの幻視」も怪しい。妄想の可能性が大ですね。おそらく妄想じゃないかと思います。
パウロの幻視体験は、コリント一15章5-8節、ガラテヤ1章16節、コリント二12章2-7節、使徒言行録9章に伝承があります。パウロが見たイエスの幻視体験のことは、こちらで詳しく解き明かしています。
パウロは復活したイエスに遭った?~イエスの姿を幻視したアストラル体験
パウロの幻視体験は、アストラル次元で起きている典型的な幻視体験ですね。現代のスピリチュアルでも見られる・起きている神秘体験です。
イエスは幻視体験に否定的
で、マリア福音書では、イエスは幻視体験に否定的です。
マリアもイエスの幻視をみたものの、マリアは特別な意味づけをしないで淡々としていたところ、イエスは、マリアのその姿勢を褒め評価しています。「私の幻視を見たからといって惑わないのは素晴らしい」と。
マリア福音書では、イエスは幻視体験に否定的です。イエスを幻視したからといて、本気で信じたり惑わされることに対してNGを出しています。
この一節はパウロの幻視体験を批判否定していることになります。くわしいことはこちらに書きましたのでご興味のあります方はお読みになってみてください。
ちなみにグノーシス主義が異端であるというのは、最近の聖書学研究においては見直されてきています。初期キリスト教時代においては多くのキリスト教があり、その中で勝ち残ったのが(政治的な力を得て勝ったのが)パウロが作ったキリスト教だったこが明らかになっています。
盲目的に信じたり、逐語霊感説を信じるのは見直したほうがよい時代に入っていると思います。冷静にキリスト教の歴史を学び、今までのあり方を見直すほうが賢明だと思います。
エイレナイオスが述べる「マルクス」の聖霊体験問題
で、2000年前の当時には、こうしたアストラル体験がはびこっていたことがわかります。これらはエイレナイオスの文書からわかります。
たとえば当時「マルクス」という預言者がいて、下層身分の女性達に暗示をかけて、その気にさせて、異言を語らせたり、でたらめな預言を言わせていたといいます。
で、当時は、こうした人達であふれかえっていて(現代のスピリチュアルとまったく同じ)、彼ら彼女らは「聖霊から霊感を受けている」「聖霊から力を得ている」と確信していたといいます。
思い込みによる体験は多い
しかし妄想(思い込み)です。虚栄心を刺激して自己陶酔したヒステリーでもあります。まさに現代のスピリチュアルにみられる現象が、2000年前に起きていたということです。
で、エイレナイオスら司祭は、どう管理し統制しようかと悩んでいたといいます。
ちなみに使徒言行録4章31節「一同が集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆にも神の言葉を語り出した」という、いわゆるペンテコステの奇跡もおそらく妄想や思い込みによるヒステリー的な聖霊体験ではないかと思います。本当の聖霊体験ではありません。
さらにいえば、パウロがイエスを幻視した体験も妄想の可能性が非常に高かったりします。
マリアの福音書におけるイエスの言葉
先ほども触れましたが「マグダラのマリアの福音書」では、イエスは幻視を見ても平静でいることを称賛しています。また「幻視は知性(妄想)で起きている」といっています。
イエスは、幻視などの神秘体験に対して否定的だったということです。
4.邪霊による「聖霊体験」
あと邪霊(精霊)が関わった「聖霊体験」もあります。
これこそアストラル次元で起きている(低層アストラル界が関わった)霊的な体験です。
キリスト教モンタノス派は、邪霊が憑依した体験もあるのでは?と言われていたそうです。しかし、この判断は、エイレナイオスら正統教会からの判断であるため、果たしてどこかで本当なのかは怪しいところがあります。
けれども現代も、邪霊が関わった霊的体験はあります。当時のモンタノス派で起きていた聖霊体験は、妄想体験のほかに低次元の霊が関わった憑依体験もあったのではないかと思います。
霊の識別問題は重要
で、①高次意識による本当の体験(コーザル次元での体験)なのか、②妄想が絡む偽りの体験(アストラル次元での体験)なのか、③低次の霊が関わった体験(低層のアストラル次元での体験)なのかを判別することは非常に重要です。
日本では、天皇に下った神霊を見分ける「審神者(さにわ)」といった鑑定士がいます。
キリスト教では審神者はできなかった
しかしキリスト教においては明確な識別ノウハウがなく、「霊の識別問題」は常に悩みの種であったことが、エイレナイオスの手記にもあります。
結局、キリスト教では、霊的感性(真我による感性)による「霊の識別(体験の判別)」ができる人がいなく、術もわからなかったようです。
四福音書が判別の基準になった
そのため、四福音書に記載されていることと合致していれば「真実」、合致していなければ「異端」という、まるで法律の条文による判定かのような雑な方法でしか見分けることはできなかったようです。
で、これがこのまま後の異端審問や魔女狩りにも連なり、キリスト教には霊性という感性がほとんど欠如していることがわかります。まさにキリスト教はマインド(理解、解釈)の宗教と言う所以です。
ただし神秘主義には霊性を育む考えはありました。
6ハートエネルギーの目覚めとしての「聖霊体験」
これが本当の聖霊体験ですね。キリスト教以外でも起きているハートの目覚め体験です。
キリスト教では、これを聖霊体験といっいます。ハートのエネルギーですね。これを「聖霊」といっています。
で、ハートのエネルギーが起動して、愛に目覚めることを「聖霊体験」といっています。これが本当の体験ですね。
で、聖霊体験の聖霊は、後述しますが、ハートエネルギーです。聖霊体験の聖霊とはエネルギーのをいっています。聖書にある「聖霊(神が使わした神霊)」とは異なります。
もっともハート体験に、何らかの霊的存在が関わることもあり得ると思います。けれども聖書にある聖霊とは違うんじゃないかと思います。
気になる「冒涜を許さない聖霊」
以上の通りで、聖霊には6種類あります。が、「6」の「ハートの目覚め体験」としての聖霊体験が実際は大事になります。
が、気になる「聖霊」もあります。それが、聖書(マルコ、マタイ、ルカ)やトマス福音書に伝わる「聖霊」ですね。怖い存在としての聖霊です。
で、トマス福音書全体が信憑性がありますので、トマス福音書が伝える「聖霊」も信憑性があるのではないかと思います。
イエスは言われた。父を冒涜した者は赦されるであろう。そして子を冒涜した者は赦されるであろう。しかし聖霊を冒涜した者は地上でも天でも赦されないであろう。
日本では馴染みのある「許さない精霊」
で、「許さない」とされる霊的存在は、日本ではお馴染みがあると思います。
それはお稲荷さん、みーさん(蛇神さま)、聖天さまですね。
約束を破ったり、きちんとお祀りしないと怒って罰(ばち)を与えるという霊的存在です。精霊でいらっしゃる方ですね。
こうした精霊の皆さんは、人間に近い存在で(人間に近い故に接点も多くなるようですが)、ご性格も人間に近いところがあるといいます。
ですので人間が約束を破ったり、義理人情にもとることをすると、お怒りになってガツンと痛い目に合わせると、昔から言われています。
ちなみに「触らぬ神に祟りなし」というのは、ここから来ているようですね。
キリスト教の聖霊とは「精霊」のこと?
で、トマス福音書や聖書にある「許さない聖霊」とは「精霊」のことじゃないでしょうか。というのも特徴がピッタリ符合するからです。
ユダヤの唯一神も「精霊」?
で、これと関連しますが、ユダヤの唯一神は、ユダヤの民を守る代わりに、神が定めた律法(ルール)を守りなさいという「契約(約束)」を交わしています。
で、こうした取り引きや約束は、まさに精霊さんの特徴です。
つまりユダヤの唯一神は、お稲荷さん、蛇神さま(みーさん)と同じ境涯の精霊であって、ユダヤの民は、こうした霊的存在と共存共栄してきたということなんだと思います。
グノーシス主義が説くユダヤの神
ちなみにグノーシス主義では、ユダヤの神を「ヤルダバオート(デミウルゴス)」といって、低い世界の神(霊的存在)としています。
グノーシス主義では「ユダヤの神は、創造主と思い込む低次のヤルダバオート(神)」とまで言っています。
ちなみにグノーシス主義では、高次の神をアイオーンとかプレーローマといっています。で、イエスはアイオーンしての存在としています。
「悪いヤッカ」を伝える原始仏典
ちなみに2。原始仏典パーリ長部仏典第32経「アーターナーティヤ経」には「悪いヤッカ」といって、四天王界の天人でありながらバランスを崩して、悪道に落ちてしまった堕天使のような天人がいることを伝えています。
龍神さんは、ちんぷりかえってしまって、悪さしてしまうこともあるようです。
⇒天界の神でも邪神(悪いヤッカ)になる
⇒龍神の性格~原始仏典に登場する龍神は気性の激しい善悪神
人間に近い境涯の霊的存在は、人間に近いため不安定にもなりやすく、それが故に天人の皆さんは、善行や徳に励んで善いエネルギーを満たし続けていかないと生きていけないともいいます。
ですのでお仕事が善行や積徳になるんでしょうね。
で、人間に近い霊的存在の精霊さんは、人間と共存共栄をはかって善行・積徳をされるんじゃないかと思います。
が、人間が約束を破ったり、きちんとお祀りしないと、機嫌を悪くされるんじゃないかと思います。
トマス福音書のイエスが言う神とは?
ところで「トマス福音書」で、イエスは「ワンネス(禅定、サマーディ)」を説いています。
イエス・キリストの奇跡はワンネスだった~トマス福音書が明かす奇跡の秘密
で、ワンネス(禅定、サマーディ)とは真我のことでもあります。梵天という偉大な神です。
つまり「トマス福音書」でイエスは、ユダヤの神ではなく、もっと高次な神(アイオーン)を説いていて、それは梵天の神ということです。
で、「神の国」とは真我がわかること、ワンネス(禅定)に至ること、梵天の神に会う、梵天の神になることを言っています。
「トマス福音書」にある聖霊とは?
なので「トマス福音書」でイエスが言う「聖霊」とは、約束を守らないとお怒りになる蛇神さん(みーさん)といった「精霊」のことでしょう。グノーシス主義でいう「ヤルダバオート」。
で、「聖霊とは梵天の神さま(アイオーン)ではありませんよ」ということを伝えるために、トマス福音書に聖霊に関する言葉が残ったんだと思います。
イエスは言われた。父を冒涜した者は赦されるであろう。そして子を冒涜した者は赦されるであろう。しかし聖霊を冒涜した者は地上でも天でも赦されないであろう。
聖霊体験とは?
で、話しを戻して聖霊体験。これは「1」「2」「3」「4」「5」のすべてに該当しませんね。
聖霊体験とは「6」。
聖書にもどこにも書いていない体験であり現象です。
聖霊体験は、隣人愛を実践したり、素朴な親切心の有り様から発動しやすい「ハートの目覚め」のことですね。
で、聖霊体験の「聖霊」とはハートエネルギーのことになります。
まとめ
このように聖霊体験からいろいろなことが氷解しました。
キリスト教で言われる「聖霊」とは「精霊」のことだったんだと。
ユダヤの唯一神も「精霊」だったんだ。
キリスト教で曖昧なところが氷解したのです。
それにしても教義をあまり知らないほうがハート体験といった聖霊体験が起きやすいというのも皮肉な話しですね。
キリスト教は不思議で複雑怪奇な宗教だと思います。
教義をよく知らないシンプルな信仰と、素朴に親切な名も無き人達による活動なり有り様が、ハートの覚醒という恵みを引き起こしているんじゃないかとも思います。