キリスト教は「聖霊」「とりなしの祈り」が大切
キリスト教を理解するには、
・聖霊(聖霊体験)
・とりなしの祈り
この2つは要になりますね。で、キリスト教の書籍を何冊か購入。
とりあえずタイトルとレビューから、よさげそうなものを選んでみました。
キリスト教のことがわかると、西洋の歴史の深層、西洋人の意識の構造、そうしてグローバリズムの最も深いところがわかりそうですね。
聖霊はキリスト教の理解のキモ
中でも「聖霊」ですね。
聖霊体験。
聖霊体験と、その重要性は旧約聖書の時代から言われていたんですね。
これがわかると、西洋人の人間性の理想、精神性の華は、聖霊と聖霊体験にあることが直感されます。
とにもかくにも「キリスト教」---中でも聖霊、聖霊体験---の理解は、西洋の歴史や文明、精神性を理解するにおいては、欠かせないものです。
で、聖霊を中心にキリスト教を理解していくと、世間で思われていることとは正反対の見解にも至りそうな予感があります。
またグローバリズムを妥当であるとみなす見解にも至りそうな予感があります。
聖霊とは?
聖霊とは、神(創造主)の一面とされていますが、神気、真我からのエネルギーのことですね。同じエネルギーでも自然なエネルギーです。真我からのエネルギー、で、これはリラックスすると感じられるものでもあります。
事実、聖書には「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる(ルカ伝12-12)」とあり、これはリラックスしたときの伸び伸びとした自然な感じです。
で、聖霊体験になると、さらに強い自覚をともなった体験で、チャクラ体験、一瞥体験、覚醒体験などになり、幅がありますが、愛の目覚め体験になりますね。
聖霊体験 vs オカルト
聖霊、聖霊体験が、西洋人の精神性の華、人間の理想・極みであるならば、いろんなことがわかるようになりそうです。
たとえば中世の魔女狩りが起きた理由もわかりそうです。で、ザックリいいますと、
- 聖霊・聖霊体験・・・コーザル界系(真我、創造主系)。崇高な体験。意識が明瞭かつ愛にあふれた精神性。高い波動。
- 魔術、オカルト、スピリチュアル・・・アストラル界系。妄想、混乱、どんより、不明瞭、低い波動。
魔術、オカルト、スピリチュアルが毛嫌いされるのは、キリスト教の教えに反しているから云々よりも、その低い波動や精神性にあるからでしょう。アストラル界系だからですね。
スピリチュアルの中には、良いものもありますが、多くはおすすめできないと感じています。精神的に良い作用を及ぼさないからですね。
聖霊体験は慈悲・ハート体験と同じ
ちなみに聖霊体験、とりなしの祈りは、
- 聖霊(聖霊体験)・・・慈悲の体験、ハートチャクラの目覚め
- とりなしの祈り・・・慈悲の祈り、利他の祈り
とも言えます。本質的には、他の宗教で起きていることと同じですね。
なので「キリスト教独自の出来事」とみなすと、硬直した受け止め方や、カルト化するおそれがあります。
人間臭いイエスの神格化と苦悩
ところでキリスト教は、イエスにしても使徒にしても、人間臭いところがありました。聖書を読む限りでは、暴力的、俗物なところが見受けられます。
が、こうした俗人性が、聖書を面白くしています。物語としてもドラマティックな彩りになっていますね。イエスを筆頭に、彼らは人間臭い人達だったんですね。
あくまで聖書からの読み取りになります。実像はわかりませんけどね。
が、聖書にある姿が本当だと仮定すれば、これらの人間臭さが、後のキリスト教神学の際に、頭を悩ませることになることは容易に想像がつきます。
代表的なのがキリスト論ですね。また三位一体論です。イエスを純然たる神の子とするのか、人間でありながら神の子の部分があるとするのか。神学論争にもなっていますね。
で、なんとか神格化しようとして苦悩し、屁理屈を付けて構築するようにしたんだと思いますね。
こうした教理制作の際、たずさわる人達が理想主義であればあるほど、人間臭いイエス達をどう解釈するかに苦慮するはずです。
が、そんな理想主義に走りながら教理を構築するプロセスにおいても、人間の愚かさや悲しさを垣間見ることもできそうです。
キリスト教は低レベルな宗教だが愛を重視
キリスト教は、仏教から見ると、低レベルな宗教なことは否定できません(失礼!)。
そもそも聖書そのものが、ハートの体験をしていない(していても浅い体験)の人が書いたと思しき「創作」がかなりありますね。聖書の筆者は、信仰に傾倒し過ぎの感と、イエス礼賛して神格化しています。しかもパーソナリティ障害もありそうです。
こういう人達が書いているため、聖書の記述は過激になっています。際だった聖化と、聖に対する否定や攻撃が過激になってしまう。聖書を文言通り受け止めると、人格障害になる懸念があります。
こうしたことは聖書を読んでいれば気がつきますが、本心ときちんと向き合わないでいると自分を誤魔化してしまうでしょう。違和感は違和感として認める必要があります。
でありませんと、その違和感を抑圧するようになります。で、知性がうまくはたらかない愚かな人間になってしまいます。
で、こうしたことは西洋の歴史にも出ているなあと思いますね。聖書やキリスト教を見ていくと、人間の愚かさや悲劇を見ることもできて、西洋人と西洋文明の理解に非常に役立ちます。
聖書に描かれるイエス達の人間臭さは、ノイズといいますか、理解に混乱をもたらす要因にもなっていそうですが、「聖霊・愛・祈り」という点にフォーカスすると、キリスト教の良さがわかります。また西洋の歴史と精神性が浮き上がってくるように思います。
宗教の中で、キリスト教だけはよくわからんと思っていました。いえね、実際に教会に入ったり、文献を読みあさればわかるようになると思いますが、分派が非常に多く、どこから取りかかればよいのかよくわからなかったというのがあったものでした。
また聖書も、やさしい言葉でありながら翻訳がちょっとおかしく感じられ、まどろっこしく、今ひとつ入り込めないというのがあったものでした。
ところがキリスト教のことがようやくわかってきたというのがあります。
現時点では、キリスト教の歴史はほぼ学び、今は聖書を読んでいます。で、聖書を読むと、キリスト教って微妙だなあ、なんだかなあと思えてきます。
しかし一方でイエスは実はエネルギー的なことを言っていたこともわかり、それこそ目から鱗となっています。キリスト教のことは、学びとともに理解も深くなっていきそうです。
それにしても、聖霊、聖霊体験が、西洋人の精神性の理想と華でありそうなことがわかりますと、いろんなことが深いところから解き明かされそうです。