TM(超越瞑想)瞑想~20世紀に流行ったマントラ瞑想
TM瞑想(超越瞑想)というのがありますね。マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーが普及した瞑想です。
1950年代からのヒッピー文化から1970年代のニューエイジ時代では、中心的な存在で、世界中に広まってもいます。いわば20世紀を代表する瞑想といってもよいかと思います。
TM(超越瞑想)瞑想とは、マントラ瞑想です。マントラを使って行うヒンドゥー教の瞑想です。阿部敏郎さんも、マントラ瞑想をしています。が、こちらはTM瞑想とは違ったと思います。
しかしながらマントラを使ったTM瞑想は、わりと広く行われています。
TM瞑想における真我状態の区分
で、TM瞑想では、真理に達したときの意識の区分を3つに分けています。これがちょっと興味深いんですね。どういうことかといいますと、TM(超越瞑想)瞑想では、
- 宇宙意識・・・真我に達した状態
- 神意識・・・真我への溶け込みが深まり、精妙な感覚(超能力的)が開けてきた状態
- 統一意識・・・完全な状態(いわゆる完全なる涅槃、完全なる解脱)
の3つにわけて、次第に深まっていくとしているんですね。
要は一般的に「真我」や「宇宙意識」と呼ばれている次元を飛躍した真理の意識状態に達すると、そこから三段階を経てゆくという考え方です。
要するに
・宇宙意識・・・真我に開けた状態
・神意識・・・真我が深まった状態
・統一意識・・・真我と完全同化
ということですね。
OSHOの七身体論における真我状態の区分
ちなみにOSHOも、似たような区分をしています。OSHOの区分では、
- 第五身体・・・目覚めと至福。真我に開けた状態。真我がわかる状態。
- 第六身体・・・真我への深まり。広がる意識。
- 第七身体・・・非在。虚空。真我と完全同化した状態。
としています。
またチャクラにも対応させています。ただチャクラに、身体意識を対応させることは、厳密にいえば微妙です。正確な表現にはなり得ないと思います。
このことは、OSHO本の中でもタントラ・エッセンス全開の「奇奇跡の探求(2)」にあります。七身体論として述べられています。興味深い区分の仕方です。
テーラワーダ仏教における悟り意識の区分
テーラワーダ仏教では、さらに精密な区分をしています。そもそも「見性」したときの空意識や無我感覚を、預流道心第一禅定から始まって、預流道心第五禅定までの五種類に分類している程です。
また悟りの深まりも、
・預流道/預流果
・一来道/一来果
・不還道/不還果
・阿羅漢道/阿羅漢果
といった具合に、悟りの深まりを4段階にしています。
ちなみに「預流道」になれば、次の瞬間に「預流果」になるといわれています。しかしテーラワーダでは、道と果では微妙に違うとして、あえて分けています。この精緻さが仏教の真骨頂だったりもします^^
テーラワーダでは真我という言葉は使用しない
ちなみにテーラワーダでは「真我」という表現は使いません。「真我」はタブーです。ですので「真我への溶け込み」といった表現は取りません。
その代わりに、心が浄化してゆく様として表現しています。端的にいえば「煩悩が無くなっていく様」を述べています。
けれども煩悩が薄まって無くなっていくことは、マインドが真我へ深まり、溶解していくことを言っているんですね。実は、テーラワーダでは回りくどい表現を取っています。
「煩悩」という言葉を使うのは、実はちょー回りくどい表現だったりします。あるいは、ネガティブな状態にフォーカスした表現ともいえます。
で、何故、こんな回りくどく誤解されそうな表現を取っているかといえば、悟りのプロセスとして必ず出てくるはずの「真我」という意識状態を示す言葉を使わないからです。
何故、テーラワーダ仏教や原始仏教では「真我」がタブーかといえば、これは説明が長くなりますが、ブッダが使用を禁止したという由来に基づいているからです。
もっともブッダが真我を否定したというのは、当時盛んだった「観念化」への戒めだったと思うんですね。しかし、「ブッダがそう言った」という言葉だけが広まってしまった感もあります。
仏教では、煩悩が薄くなる・根絶されるという切り口から表現していますが、これは回りくどい上に、わかりにくい表現だったりします。要は、真我への深まりと溶け込みを言っているんですね。
テーラワーダの説明は精密なのですが、表現に問題があります。また表現の仕方が古く、画一的にもなっています。
その点、現代覚者の説明のほうが、多様性があってフレキシブルです。テーラワーダは、ややもすると硬直した表現を取っている感もします。見性を体験したときの感じは、本当は多様性に富んでいます。
キリスト教神秘主義では真我の代わりに「神」
ちなみにキリスト教神秘主義では、こうした精緻な区分はありません。
ザックリとした分け方ですね。しかも「真我」という言葉は使用しません。「神」「創造主」「父」といった言葉を使用しています。
また神との深まりを、
- 照明(しょうみょう)・・・神を実感する。神に出会う。
- 合一・・・神の元へ戻る。実際は神と合一すること。禅定のこと。
といった分け方をしています。
「照明」とは禅でいうところの「見性」ですね。目覚め体験です。真我意識にひらけることを言っています。キリスト教神秘主義では、これを「神に会う」という表現を取っています。
キリスト教神秘主義では神の超越はタブー
しかしキリスト教神秘主義は「合一」で止まっています。その先は言及されていません。
が、十字架の聖ヨハネやバーナデット・ロバーツは、「合一」の先にまだあることを指摘しています。「神の超越」があるとしています。
けれども「神の超越」は、キリスト教神学においては最大のタブーになります。キリスト教では、創造主と同一になったり、超えることはあり得ないこととし、また、そういう考えを持つこと自体が禁止・御法度になっています。
このようなことを言っただけでもアウト。神学的にいえば、人間が神を超えることは、あってはならないことだったりします^^
しかし、十字架の聖ヨハネやバーナデット・ロバーツらは、「合一」の先に「超越」があるとしています。
で、この「超越」こそ、TM瞑想における「統一意識」であり、OSHOの七身体論における「第七身体」であり、禅における「大悟」であり、テーラワーダにおける「阿羅漢」だったりしますね。
世界中の悟り系の教えは本質的には同じ
このように、それぞれの世界では、真理への目覚めのスタートを、
- TM瞑想では「宇宙意識」から始まるとし、
- OSHOの七身体論では「第五身体」から始まるとし、
- テーラワーダ仏教では「預流道心」から始まるとし、
- キリスト教神秘主義では「照明」から始まるとし、
- 禅では「見性」から始まるとしています。
それぞれの世界には、真理に啓(ひら)ける段階があります。それぞれの世界において、「悟りへの目覚め」と「深まり」、そして「ゴール」への表現は、違っていたりもします。
こうして、いろんな世界を見ていきますと、表現の違いこそあれ、言っていることの本質は全部同じです。
自分達の教えだけが絶対に正しいとすると必ず分離と争いを生み出す
ところで悟りに関しては、「原始仏教だけが悟りの方法を保持している」といいます。が、こういう信念は危険ですね。また愚かです。
どの世界であっても、「自分達の教えだけが絶対に正しい」として握りしめることは、危険な原理主義になります。ドグマになります。必ず怒りと争いの火種を生み出します。
ほら、ご覧になってみてください。同じ神を信奉するユダヤ教とキリスト教とイスラム教は、世界でもっとも争っています。戦争ばっかりしています。
「正しい」と信じて握りしめることは、たとえ「正しい」とされているものであっても、必ず分離と争いを引き起こすんですね。
こうしたドグマに陥らないことは大切です。で、世界中の悟り系のアプローチもみてまいりますと、どれも本質的には同じということですね。
と、今日は、それぞれの世界における悟りと、悟りの深まりについてダイジェストで紹介してみました。