悟りと覚醒体験はまったく別もの

悟りと覚醒体験は、まったく別ものですね。

で、瞑想では悟ることはできません。
絶対とはいいませんが、ほぼほぼ不可能。

世にある瞑想で悟ることもできません。

悟るためには、禅ですね。
なにもしない。

しかも井上義衍老師系の禅でなければ実質無理ですね。
 

で、悟るためには、悟った人から指導を受けないと無理です。

「いや、そんなことはない」と思う方も多いでしょう。

私も昔はそう思っていましたので、今書いたことを受け入れることができない、否定したい気持ちもわかります。
 

が、事実は、今書いた通りです。

で、これがわかったことは大きかったものです。

途方も無く巨大なターニングポイントとなったものです。

 
と、ここら辺でピアノ曲を。

Simon Trpceski – Debussy: Reflets dans l’eau

※引用元:Warner Classics

ドビュッシーの「水の反映」。
いいですね。
演奏はSimon Trpceski(シモン・トルプチェスキ)。
 

で、瞑想では、悟ることはできません。

禅(井上系の禅)のみでしか、悟ることはできないんですね。

で、瞑想の本質はエネルギーです。

覚醒体験、一瞥体験などは、エネルギー体験です。
 

なぜ、こう言い切れるかといえば、悟り以外のことはほとんど経験しているからです。

そんな経験なり体験に基づいて、このブログでも書いていたりします。

が、悟りではないんですね。
悟りではありませんね。

実際、悟った老師を話しをすれば、まったく理解不能に陥りますからね。

が、何度かお話しを聞いているうちに、ようやく知的に多少理解できるようになるとい塩梅です。
 

しかし悟りは、知的に理解できません。

というか、言葉を通して理解できる類ではないんですね。

いえいえ、言葉で説明できる性質ではないんです。

だから、悟りを言葉や文字で伝えることは100%無理なんです。

 
しかし覚醒体験は、言葉で伝えることができます。

たとえば「私は、そのときなくなった」「自分が世界になった」「自分が宇宙そのものであることがわかった」「そのとき愛だけになった」「そのときすべてが消えた」という具合に、言葉で語ることができます。

覚醒体験とは、「認識が残っている体験」なので、言葉で語ることができて、ある程度、説明できるんです。

認識が残っている体験は、言葉で説明できる性質なんです。

だから覚者と言われている人は、自分の身の上に何が起きたのかを、その体験を、言葉で説明できるわけです。

で、似たような体験をしていると、その体験がどういものかが、言葉を通してわかるわけです。

しかし悟りは、言葉で説明もできませんし、文字化することも不可能ですし、そもそも言葉で理解できるものではありません。

 

だからエックハルト・トールをはじめ、OSHO、ラマナ・マハルシも悟っていない可能性が高いですね。いえ、悟っていないでしょう。

悟りとは、意識の拡大とか、私がいなくなるとか、ノンデュアリティ的な体験ではないんですね。

愛に満たされるとか、エネルギーの上昇体験でもないんですね。

いえ、体験のあるものは、すべて悟りではないんです。

「私は無いということがわかった!」なんて言っている自称覚者は、悟っていません。

尊い体験をしたとは思いますが、それは覚醒体験(エネルギー体験)であって、悟りではありません。

体験を語る覚醒体験は、すべて悟りではないんですね。
 

結局、悟りとはどういうことか?
この正しい理解が広まっていないため、悟りでないものを悟りとしてしまっています。

悟りについては、悟った老師から直接説明を聞いたり、指導を受けるしかないんですね。
 

こうしたことがわかって以来、ナチュラルスピリット社から出ている覚醒本は読まなくなりました。

ただ、この前、ステファンボディアンの「マインドフルネスを越えて」は購入しました。

これはマインドフルネス界隈のことを知るために購入しただけです。

悟り系のブログは、目を通すことはあっても、まともに読んでいません。業界リサーチのためにながめている程度ですね。

そんな風に変わりましてね。

これも「本当の悟り」を知ったからです。
 

もっとも知ったといっても、知的な理解に過ぎませんけどね。

でも知的な理解もまた大事。

なぜなら、悟りでないものを悟りとする遠回りをしなくて済むからです。
 

悟りとは、悟った老師の言葉を借りれば

であると。

事実、実物。

悟る修行は、その通りにするだけ。

極めて単純なんですが、単純であり、余計なものがくっつかないようにするには、悟った老師から指導を受けないとほぼ100%不可能なんです。
 

このことは、文字面で聞いても理解できません。

実際に、悟った老師の元で修行をすることで、ここに書いてあることが「なるほどー」と理解できるようになります。

理解できるといっても、知的な理解ですけどね。

悟りとは、言葉や観念を超えています。

だから言葉で伝えられないし、理解もできない。

それくら「本当の悟り」と、ちまたにあふれる悟り情報とは、雲泥の差です。
 

で、瞑想とは何か?

先ほども書いた通りで、エネルギー体験が本質です。

で、魂の向上とか、人間性の高まりとか、能力の高まり、愛の発露、意識の拡大、高次の意識、宇宙意識、私が世界となる意識などなど、こうしたいわゆる高次の性質は、すべてエネルギーです。

エネルギーがもたらしています。

で、「エネルギー+悟り」が、理想なわけですね。

理想。
 

しかしエネルギーの開眼がなくても悟ることができます。

で、これを色濃く受け継いでいるのが禅。

だから禅はドライ。

神秘を語らない。
戒律も徳も必要としない。
 

この辺りのことがわかってくると、グルンと価値観なり考えがひっくり返ります。

ラマナ・マハルシを悟ったと思っている人は多いと思いますが、彼を追い続けても悟ることはできません。

意識の拡大、自己の超越は可能かもしれませんが、究極の悟りに至ることはできません。

ラマナ・マハルシがダメと言っているわけではありませんからね。彼も尊い人であると思います。

しかしラマナ・マハルシは悟っていないということです(可能性が高い)。
 

これがわかって以来、修行が180度変わったものでした。

で、悟った人の指導を受けないと、悟ることができないの意味もわかったものでした。

繰り返しになりますが、言葉・観念を超越しているからです。それを言葉・観念で導こうという難技をするわけです。

テレパシーとか、シャクティパッドといった怪しげな儀式ではなく^^;、言葉で指導しますが、言葉で導きながら、言葉を越えた悟りに導くのは、そりゃ悟った人にしかできないのは当たり前といえば当たり前なことが、この説明でもおわかりいただけるのではないかと思います。

と、今夜はちょっと冷えますね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です