時々「霊が見える」とか「霊の声が聞こえる」といった異能を持った人が出てきます。
こう言っては何ですが、病気であったりするケースも少なくありません。また、本当であっても「それはウソでしょ」とか言われたりもします。
確かにこの手の人の中には、病気やハッタリもあります。妄想や嘘も少なくありません。
ですが、中には本当に見えている人もいます。実際にいますね。
で、こうしたホンモノの方は、周囲から理解されなかったり、誤解されて、多くは黙ってしまったり、孤独な道を歩んでゆきます。
中にはテレビなどに出るようになって、半分「おもちゃ」にされてゆくことも。亡くなった宜保愛子さんは、このケースだったかもしれません。
テレビに出ると「おもちゃ」にされることは、こればっかりは仕方ないですね。
霊能を持った方が、社会で軋轢を減らし円滑に生きていくためには、黙るか、自分の世界を作り上げてマイペースに生きていくか。あるいは教祖になるか。いずれにかになると思います。
もっともこうした苦悩は特殊な霊能を持った人に限りません。際だった才能を持った人や強い個性を持った人なども、実は同じだったりします。
「大多数と違う」というこは「個性」になります。が、その「個性」を確立するまで、案外、苦悩も多くなったりもします。
それがビジネスの世界であるなら話しは別です。会社勤めをしている人なら我慢して会社で働くか飛び出すか、自分で会社を起こすか。こういった選択もできます。
ビジネスの世界の場合は、際だった才能や個性があったり、または目標がある人なら、多くは独立したり、フリーとなって個人事業主になるでしょう。
起業の場合は、それなりに社会的にも評価されます。ですのでビジネスに活かせる・直結する「特異な才能・資質」なら、むしろ生き方が楽になる場合も少なくありません。
しかしこれが「霊能」とか、こういうジャンルになると、まず「胡散臭い」ものに見られます。同じように特異な思想や発想もそうです。
これらはオカルトや胡散臭いものに思われてしまいがちで、起業とは違って、社会的に評価されにくい類です。
ですからオカルト紛いな特異な才能、思想、発想であっても、社会に受け入れられる有り様がおすすめです。
欧米と異なり、日本の場合は無意識の中に融和・調和がありますので、この集合的無意識に沿ったほうがラクなんです。
超然として、独りその道を歩むとしても、社会と軋轢を引き起こすのは、正直なところいただけない。
その点、真っ当な仏教は社会的な価値観にも合致しています。社会との軋轢を生み出すことは、かなり少ない。
といいますか、仏教は「心を浄める」という軸がありますので、これが社会規範やモラルと重なります。
ですから仏教を実践することは、そのまま「良識人」となっていくことをも意味しています。
しかし中には、カルト化する仏教もあります。これは、その指導者なりがカルト体質で、そもそも見解に歪みがあることが多いからですね。
八正道でいうところの「正見」。正見とは智慧のことで、一般的な知性とは性質が異なりますが、「正見」とまでいかなくても、バランスのある知性は欠かせません。
知性に歪みがありますと、なにかと問題を引き起こすようになります。偏見が過ぎるというのは、その代表かもしれません。いろんな見方があっていいんですけどね。偏見にこだわるようになると、さすがに問題でしょう。
仏教の指導者の中には、偏見に過ぎて、なおかつこだわりの強い指導者もまれに出てきます。昭和の時代には、宗教を立ち上げた教祖にも多いタイプですね。一見するとカリスマ的にも映ります。けれども、仮にどんなに魅力的にみえても、安易に近づいてはならないでしょう。
やっぱりバランス感覚があって、社会と融和的、そして社会に貢献しようとする姿勢。また柔軟でオープンな指導者がおすすめですね。
なかなかこうした人は少ないのですが、理想といいますか、指標といいますか、この辺りを基準にしておくと間違いは少なくなるんじゃないかと思います。
2014/10/22 09:03