教えレベルの宗教・哲学・倫理・道徳は限界を迎えている
時代が悪くなっているという人がいます。
で、時代が悪くなっているのは、「宗教・哲学・倫理・道徳を大切にしてこなかったからだ」という指摘があります。
しかし、これは非常に浅薄で、思慮の浅い見解と言わざるを得ないんですね。手厳しい言い方ですが。
そもそも「教え」そのものは、今から2500年くらい前にもあり、人類は、先人の教えを受け継いで、実践もしようとしてきています。
キリスト教も(かなり問題を含みますが)、教えを学び実践してきている歴史があります。
しかし、現実は。。。
戦争と略奪の繰り返しです。
歴史をみれば明らかで、「宗教・哲学・倫理・道徳の教えを大切にしてこなかったことの弊害」ではなく、「宗教・哲学・倫理・道徳の【限界】」なわけですね。
宗教・哲学・倫理・道徳では意識は変容しない
そもそも一般的な宗教・哲学・倫理・道徳は、「教え・観念(思い、思考、イデオロギー)」です。
ところが人間は教え・観念では腹オチしないようにできているんですね。
腹オチとは、心底納得して身につくことをいいます。これを習得とか体現ともいいます。
で、腹オチするためには、武道などに見られるように「体」「感覚」を通して体得すること。
あるいは瞑想や黙想をして心の深い領域を感じ、その向こうにある叡智や善意識を体感体得することなど、教えや観念・思いとは異なるアプローチが必要だったりします。
今までの人類の歴史は、まさに教えとしての「宗教・哲学・倫理・道徳」に代表されるように、文字、言葉、教え、考えで表される「観念」です。
しかし、これでは人間の意識の変容をうながすことは難しく、今や限界にいたっているわけなんですね。
AI化する宗教・哲学・倫理・道徳が登場する
で、皮肉なことに、文字や言葉で表すことができる「宗教・哲学・倫理・道徳」は、AIが得意とすることで、AI化された宗教や神が遅かれ速かれ登場します(断言)。
AI宗教や、AI神はいずれ登場しますね。
で、これが可能なのは、結局、「宗教・哲学・倫理・道徳」は言葉化されている、言葉で理解されているからですね。言葉の範疇にとどまっているからとも言えます。
AIの登場によって、人類は、AIに脅威を感じて、言葉や文字、教えを超えた意識へシフトさざるをえなくなっていると思っています。
聖典の読み方も考え直す必要に迫られるでしょう。
キリスト教や仏教といった「文字や言葉で理解」している世界中の宗教は、AIの登場により深く考え直さざるをえなくなります。
で、否応が無く宗教の限界と向き合わなければならなくなります。
そうして従来の「宗教・哲学・倫理・道徳」のように言葉化された教えではなく、霊性や高次意識といった非言語的な善意識こそが人類にとって必要であり、人類の意識の変容をうながす突破口になることを、多くの人達が気がつくようになります。
AI時代でジレンマに陥るキリスト教
ちなみに、宗教の中で、もっとも面倒で問題が起きるのがキリスト教です。
ヨハネの福音書は、現代キリスト教の中核になる教えです。
ところがヨハネ福音書の冒頭にある通りで、世界は言葉(ロゴス)によって創成がはじまったとしています。なのでキリスト教にとって「言葉・教え」は絶対的になるわけですね。
この傾向は、聖書を絶対視し、聖書は絶対正しい(聖書無謬説)、聖書は神の使いである聖霊が作った神聖なる書物(逐語霊感節)としているプロテスタントには顕著です。
ですのでキリスト教(特にプロテスタント)にとっては、「言葉には限界がある」という考え方自体が、非常に抵抗感を抱くでしょうし、受け入れがたい見解になるのではないかと。
現代キリスト教を規定している中核が、皮肉なことに、言葉(ロゴス)が世界を創ったと伝える「ヨハネ福音書」となっている限り、キリスト教徒の呪縛は強いものがありそうです。
AI時代ではすべての宗教が見直される
けれどもAIの登場によって、聖書を捧持するキリスト教だけでなく、すべての宗教が見直しに迫られるようになります。
このテーマは避けて通ることはできないでしょう。
で、ここでも大分水嶺が起きると思います。
新しい意識へシフトしていくのか。
それとも古い慣習にしがみつくのか。
皮肉なことにAIやグローバリズムの浸透によって、「宗教・哲学・倫理・道徳」といった教えから脱却して、より叡智に開かれていく必要性が、人類には否応が無く求められています。
で、その動きはすでに始まっています。
AIは真似ができない宗教・哲学・倫理・道徳の本質
ちなみに「宗教・哲学・倫理・道徳」の本質は、普遍的な善心ですね。
なので、前向きな気持ち、物事の明るい面を見ようとするポジティブな認知や心の有り様が大切であり、これからますます求められていくと思います。
で、これらのポジティブな認知や考え、心は、さすがにAIには体得できません。
せいぜいそれらしい言葉を使って「物まね」を演じるしかできませんからね。
ですので「宗教・哲学・倫理・道徳」の本質を平たくいえば、ポジティブな心や考え、意欲的に取り組む姿勢、明朗さ、上機嫌などの「徳」「善心」ということができます。
言葉化された教えを字面通りに守るといった「宗教・哲学・倫理・道徳」は、AI時代では適応が難しく、時代遅れになることは必至ですね。
AI時代とマズローの欲求6段階説
「最終的には1人ひとりが問われている」ということになりますね。
ますます「個」に内在する可能性や高次意識への関心や重要性に気がつく人は、増えていくようになります。
現代人の多くは、昔のどの裕福な貴族や王様よりもリッチで便利で快適な生活をしています。
マズローの「欲求5段階説」の通りで、現代の多くの人が、五段階目までいたり満足しています。
ちなみにマズローは晩年「欲求6段階説」を唱えて、6番目の欲求こそ高次意識・至高意識を求める段階といっています。
マズローもそうですが、感性の鋭い人は高次意識に注目するところがありますね。
希望あふれる未来
で、昔に比べて、先進国の人達はあらゆるレベルアップしています。これと並行してグローバリズムを進めようとしていますが、グローバリズムはどう見てもかなり無理があることがわかります。
視座を高くしてみれば、希望しか見えないんですよね^^
で、こうした希望のある物の見方、受け止め方こそ、ますます人類に求められ、既存宗教に取って代わる本質的な善き考えであり善心になりますね。
既存宗教は、ますます形骸化し、やがて滅びる運命か、博物館行きの前時代的な代物に成り下がるのが多くなると思います。
こうしたことが、AIの登場やグローバリズムの浸透によって、皮肉なことに浮かび上がり、人類への大いなるテーマとして突きつけられているようにも感じています。
教えの本質を体現する人達は増え続ける
好む好まざるに関わらず、宗教・哲学・倫理・道徳、思想も曲がり角に来ています。
こうした時代では、瞑想はおすすめですね。
瞑想や実践を通して、宗教という垣根を越えて、叡智といわれる高い知性や高次の意識の体現に励む人達も、ますます増えていくようになりますね。
何らかの思想や宗教を信奉することへの弊害に気がつき、いわゆる「無宗教」となりながらも、宗教の本質を理解し体現しようと努める人は増えていきます。
実際、そういう人達は多くなっていますね。
私としては原始仏教へリスペクトしながらも、エッセンスを抽出して実践をしています。