インターネットの恩恵とハート(慈悲)

それにしても、この約10年少しは、めくるめく時期でした。いや、その前も、それなりの時期だったものです。

ただ、この10年は、インターネットのお陰で、長足の進展があったものです。

テーラワーダ仏教と思えば、アドヴァイタ、ノンジャンルな覚者、そしてヒーリング。

さすがにヒーリングは予想外でした。

インターネットが無ければ、これだけの情報を知り得ることも無かったでしょう。ネットが無ければ、30年くらいかかったでしょう。いや、もしかすると、一生、知り得なかったかもしれません。

それを思うと、インターネットの恩恵が凄まじいですね。わずか10年で、飛躍的な進展の連続でしたから。
 

そもそも、私のようなタイプは、何を置いてでも、精神的な方面に関心が向かい、気づけば、こっちのことを考えていたり、実践もしたり、工夫をしたり、あれやこれやとしていたりもします^^;

いえね、決して深刻になりませんし、習い癖みたいなもので、もう自然な感覚です。で、お気楽な遊び感覚なんですね^^;

ええ、遊びです、遊び。わたしゃ遊びやゲーム感覚で、精神的なことや、悟り的なものに関わっています。

もうね、深刻、重たい、観念、複雑な理屈、あー、もうどっか行って^^;あっち行ってーなわけでして、ホント、遊び感覚なんですね。
 

で、まあ、そんな感じで遊びながらやっているのですが、さすがにヒーリングは予想外でしたね。

ただ、思い返せば、一本の軸があったことに気づきます。

それは「ハート」。

慈悲と言ってもいいのですが、この言葉は高揚感が足りませんので、ハートと言いたいですね。

ハートはエネルギーです。これを言語化、観念化すると、善とか徳という言葉になります。

善とか徳を、言葉や観念で受け止めても、ダメなんですよ。この言葉の向こうにある本質を体得しないと、まったくといっていいほど善にも徳にもなりません。
 

私は10代の頃から、善や徳とは何かを求め、安岡正篤先生らの著書を読んだものでした。

懐かしいですね。
何度も読みました。

で、なんとしてでも善とか徳というものを知ろうとしたわけですね。観察に観察を重ね、洞察に洞察を重ねる。徹底して究明しようと本当に真剣でしたね。

それが、あるときを境にして、スルリとわかるようになったのですが、今にして思えば、こうした人間学の学び(いわゆる本来の学問)というものは大切だと思います。
 

善、徳とは、要するに宇宙エネルギーのことなわけです。ここには、いわゆる慈悲とか、隣人愛とか、神の愛といったエッセンスが、エネルギーとして流れています。

で、徳を積むとか善行というのは、高揚するエネルギーの実践になるわけなんですね。

たとえば相手に、高揚するエネルギーをギフトするわけです。わかりやすくいいますと、「ありがとうございます」という同じ言葉でも、暗くボソボソと言うのか、それとも明るく明朗に言うのか。

前者は不徳です。
後者が徳なわけですね。

ここが大切。
で、ここがわかってくると、じゃあ善行とは何?積徳とは何?ってことが、だんだんとわかってもくるわけです。
 

で、ブッダの歩みは、ハートの道です。
善の道です。

この意味は、善や徳の意味がわかれば、どういうものなのかもわかってくるはずです。また、ハートを遮断した悟りを「外道」と言うのもわかるかと思います。

はっきりいいましょう。
禅における悟りとは、外道の悟りなわけです。

これ、すごく重要なんですね。

そういうことだったりします。

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