ノンデュアリティ(非二元)では思考は不要?
ノンデュアリティ(非二元)でのアプローチにおいては、思考・言葉・観念、あるいは思想は不要であるといいます。邪魔であると。
だから思考・言葉・観念は遠ざける。
無視する。
思想などもってのほか。
といった強態で臨む風潮があります。
これは禅の悟り修行においても、おおむね同じです。ノンデュアリティ(非二元)の普及によって、思考・言葉・観念を切り捨てる風潮が広まり、「それ」を体感することの重要性にシフトしていっている向きがあります。
本当に「それ(悟り)」がわかっていない
しかし本当に「それ(悟り)」がわかっているのかどうか。微妙なところがあります。
そのため「なんちゃて」「なんとなく」といったムードや気分、雰囲気が先行してしまい、修行の本質を履き違えているのが横行しています。
思考・言葉・観念・思想は必要
で、結論を言いますと、やっぱり思考・言葉・観念は必要です。信念体系としての「思想」も必要です。
ある所までは、これらは役に立ちます。てか必須です。
というのも、こうしたノンデュアリティ(非二元)にしろ、禅にしろ、悟りのマップといいますか、悟りに関することを、まず知りませんと適切な歩み方ができないからです。
禅においても当初は教えも重視していた
そもそも「禅」にしても、中国で何度も変容しています。残念なことに、禅をしている人の間で、この歴史そのものがほとんど知られていません。
仏図澄は倶分解脱者(禅定を経由する悟りの道)を説く
中国では、「仏図澄(ぶっとちょう)」が登場した3世紀では、禅は「三学(戒定慧)」に基づいた原始仏教のやり方が主流だったんですね。
仏図澄は禅定を経由して観察する(智慧で悟る)アプローチを提唱します。つまり倶分解脱者です。
5~6世紀、菩提達磨が登場したときも、三学(戒定慧)は重視されていたわけです。禅定も有用とされていたんですね。
菩提達磨は乾観者(智慧)の道も説く
菩提達磨は「二入四行論」を説き、学ぶことと実践の両方が必要であることを述べています。
ただ瞑想の仕方は「あるがまま」になります。菩提達磨の登場によって、瞑想の仕方に大きな変化が起きます。
原始仏教でいうところの「乾観者(けんかんしゃ)」の歩みです。つまり智慧だけで悟るやり方ですね。
思考・言葉・観念・思想は後世の禅の性格
ところが慧能が登場し、その配下の神会(じんね)という人が、禅をねじ曲げてしまったわけです。
またその後、中国では「無の禅」が流行。これが日本にも伝わり、「何も無い」としての禅が広まります。
瞑想の歴史を知りませんと、中国禅の歴史の陥穽にハマって、本質を見失います。
慧能以降の禅は乾観者(智慧の道)ということです。で、後世の中国では、これが極端になって、暴力ですら容認するようになったということです。
ノンデュアリティ(非二元)にも継承されている歪んだ禅の歴史
で、これがノンデュアリティ(非二元)にも継承されているわけなんですね。禅の影響を受けているわけです。が、「なにもない」とするのは、後世の中国禅の特徴です。
で、結局、思考・言葉・観念・思想は大事なんですね。これがありませんと初心の者は、どう歩めばよいのかがわからなくなります。
思考・言葉・観念・思想を手放すのは、修行が進んだ人に限るわけですね。