スピリチュアルへの逃避は危険
スピリチュアルへの逃避。
これは時々起きます。
スピリチュアルへ逃避することを、スピリチュアル・バイパッシングともいいます。
スピリチュアル・バイパッシング。
自分と向き合うことを避けたり、抱えている問題を直視することなく、スピリチュアルの世界に逃げてしまっている状態のことですね。
要するに、自分と向き合うことをしない、ということですね。私もよく言っていることです。「乖離(かいり)」のことです。
ふわふわとしった地に足が付いていない状態です。どこか上の空。意識が、どっかへ飛んでいる状態です。
で、これこそが「乖離(かいり)」している状態のことですね。
「自覚」が大切~無自覚な「逃避」が悪い
ただ、ここで一つ注意が必要なのですが、同じ逃げることであっても、「自覚して棚上げしている」場合は別なんです。
自覚しないで逃げ回っている状態が「スピリチュアル・バイパッシング」なんですね。
わかります?このニュアンス。
自覚ができているかどうかが問題なんです。
人間は、時に「逃げる」ことも大事なんですね。てか、逃げるのが下手であると、心身を病んでうつ病みたくなることがあります。
逆にいいますと、逃げるのが下手だから、うつ病になってしまうということもできるわけなんですね。で、「逃げ」というのは、これを自覚しているかしていないかがものすごく大事なわけなんです。
無自覚のまま自分の問題から逃げてしまって、スピリチュアルに夢中になることが「スピリチュアル・バイパッシング」なんですね。
大事なことは「自覚の有無」ですね。「気づいている」とは、まさに「自覚」のことですからね。「自覚」は大事だったりします。
無自覚での逃避は乖離
で、無自覚で逃げているのは「乖離(かいり)」している状態でもあります。どこか上の空になっています。
で、スピリチュアルに乖離してしまいますと、話すことのほとんどがスピ的なものばかり。しかも、そのスピ言葉には実感がありません。どこか空想的な響きで、空虚。
言葉自体が上すべっています。ふわふわっとした感じ。
日常的なことを話しをしても、どこか地に足がついていません。俗物的な話しでないにも関わらず、日常的な話題を避けたがります。
これこそ、まさに「乖離(かいり)」した状態です。ある意味、危険な状態とも言えます。
スピリチュアル・バイパッシングの逆バージョンに注意
ちなみに、「スピリチュアル・バイパッシング」のような言葉が出てきますと、今度は意図的に「悟り」や「スピリチュアル」を否定してしまう人も出てきます。
で、「現実生活を重視することがいいんだ」「現実でこそ磨かれるんだ」といったことをを言い出します。
が、これはこれでまた問題なんですね。「スピリチュアル・バイパッシング」の逆バージョンなんです、実は。
こういう人も、スピリチュアル愛好家にいたりします。ええ。
「スピリチュアル・バイパッシング」の逆バージョンになる人は、コインの裏と表の関係だったりします。
根っこにある姿勢に「ある種のこだわり」があって、それ自体は変わらず、ただ単に悟りやスピリチュアルから現実重視にシフトしていることが多かったりします。
あるいは志が低く、本当はスピリチュアルなことを望んでいない人もいたりもします。
そもそも現実を重視するといっても、お金や異性、モノ、生活、家庭、仕事に夢中になってしまうのもよろしくありません。
一応、生活は成立しますのでOKに見えるかもしれません。が、これも一種の「乖離」状態なわけですね。
で、現世に夢中になっている人を「俗物」というわけですね。あるいは「霊性を欠いている」といいます。
乖離に気づき志を高く持って向き合うならば問題はない
志は高くして、悟りやスピリチュアルなものを求めるは良いことです。
しかし「その向き合い方が大事」ということなんですね。要するに、そういうことなんです。
向き合い方の問題です。「スピリチュアル・バイパッシング」という定義が問題なのではなく、乖離してしまうような向き合い方がマズいわけなんですね。
乖離して悟りスピリチュアルに熱心になるのも、乖離してお金や異性・モノ・生活・家庭・仕事に夢中になるのも、どちらも同じなんです。コインの裏と表との関係。
乖離しているなら、何をやっても同じこと。ここを喝破しないとなりません。
「スピリチュアル・バイパッシングという言葉を恐れて悟りを否定しない
「スピリチュアル・バイパッシング」のような言葉が登場しますと、こうした言葉に恐れて、悟りやスピルチュアルを深く探求することを避けて、あえて志を低くして俗物のようなことをする人も出てきます。
そうあってはなりません。こうした上辺だけをなぞった言葉に攪乱されてはなりません。
霊性を高めるスタンスでありながら「いまここ」であるとか、志を高く持ち、乖離に気づきながら向き合うこと。これこそが大切ですね。
こうしした姿勢であるならば問題はありません。問題ないどころか理想的な姿です。で、こうした姿こそが地に足のついた有り様にもなってくるわけですね。
「スピリチュアル・バイパッシング」のような言葉に振り回されてはなりません。上辺の意味に振り回されてしまって、せっかくの求道心や高い志をへしゃげてしまうほうが損失になります。
何事も適切に向き合うことですね。
動機が大切~だから自己観察が欠かせない
「スピリチュアル・バイパッシング」という言葉を用いると、とかく本質から離れてしまう懸念があります。
本質は、スピリチュアルにしろ、現実生活にしろ、それを逃避の対象にしたり、無自覚にハマってしまうことが問題ということです。
で、「向き合う動機がどうなのか」ということなんですね。
動機。
動機は大切です。
で、もっと大切なのは、その動機なりに自覚的であることですね。動機をちゃんと自覚しているかどうか。
これこそがそれが、「自分の心に気づく」ことであったりもするんです。で、これが「自己観察」なんです。
なので「自己観察」が大事なわけなんですね。ええ。
で、自己観察をしっかりとしていれば、「スピリチュアル・バイパッシング」とか「乖離(かいり)」することはまず起きなくなります。
まとめ
スピリチュアル・バイパッシングという言葉は初めて知りましたが、要は「乖離(かいり)」した状態ですね。
で、悟りとか高次元の意識を求めることはいいことなんです。悪いことではありません。ただ、その向き合い方やプロセスが大事なんですね。
乖離(かいり)していると、よくないんですね。ただ、大なり小なりひとは乖離していますので、大事なことは、乖離していることに「気づいている」「自覚している」ということですね。
これを明知とも言えるかもしれませんね。
とても大事なことになってまいります。