マグダラのマリア福音書とは?
「マグダラのマリアによる福音書」。
2世紀の頃からその存在は知られていたものの、発見されないままだったといいますね。
しかし1896年にエジプトで「ライランズ・パピルス463」が発見。
1983年に同じくエジプトで「オクシリンコス・パピルス3525」が発見。
この2書にはほとんど整合性があり、この2書によって「マグダラのマリア福音書」の内容に信憑性が出ています。
「マグダラのマリア福音書」は一部のみしか分かってません。がそれでも大変興味深い内容です。
マグダラのマリア福音書の内容とは?
「マグダラのマリア福音書」の内容は、イエスとマグダラのマリアによる問答形式を取りながら、
- 罪(原罪)は存在しない
- 心の浄化(魂の向上)
- 本当の自己(真我)
- メシアとは真我
- 縁起について
- 病気になる理由
- 幻視・ビジョンについて
これらに言及したヨーガ的な福音書となっています。最後にペトロをはじめとした十二使徒の反応を記述しています。
「マグダラのマリア福音書」では、イエスはヨーギーのような人物となっています。
一般的には「グノーシス主義」の文書と思われているようですが、ヨーガ的ですね。本当の自己(真我)を軸にした教えと実践をイエスが説いています。
そもそも「グノーシス主義」というくくりが不適切ですね。以前も書きましたが、グノーシス主義は、信仰しか理解のできない人達が付けた蔑称の総称です。
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マリア福音書もそうですが、従来のキリスト教をひっくり返す文書といっていいでしょう。
以下、原文から抜粋要約&整理して記載します。
「マグダラのマリア福音書」が伝える驚きのヨーギー・イエス
では「マグダラのマリアによる福音書」が伝える具体的な中身についてご紹介してまいります。
罪(原罪)は存在しない
マリア福音書ではのっけからイエスが「罪(原罪)は無い」と断言しています。
で、罪とは欲望(煩悩)に基づく行動を取ることで生じる。つまり執着・とらわれによって罪の意識が生じるとイエスは指摘。
で、「罪の意識を感じる」という裏側には「善意識を求める意識があるから」と。で、善意識になれば罪の意識は生じなくなるといったことも指摘しています。
簡潔な文章なのですが、至言です。
結局、罪とか何らかの思いは、自分で作り上げている観念になるわけですね。
で、罪の意識の場合は、欲望(煩悩)に基づいた行動の結果、生じてくる思いであることを、イエスは喝破しています。
こうした言及は、仏教やヨーガでは顕著ですね。
メシアとは真我
「まことの人の子(メシア)はあなたがたの内側に存在する。それに従いなさい!」
「求める者はこれを見出すであろう」
「なので行って(本当の)神の王国の福音を宣べ伝えなさい(コーザル界の真我こそが本当の神(梵天)であることを伝えなさい)」と。
これは新約聖書に書いてあることと全く異なる伝聞です。
「人の子=メシア=真我」ということ。
キリスト教におけつ「メシア」はユダヤ教のメシアと異なっています。
イエス・キリストが生きていた頃はメシア信仰と復活信仰が広まっていた時代
しかし、マグダラのマリア福音書では、さらなるどんでん返し的な「メシア」の概念を言っています。それが「メシアとは自己の内側にある真我である」と。
神の国とは梵天の境涯
で、真我であるが故に、神の国とは梵天(ぼんてん、アイオーン)であることがわかります。コーザル界の神(グノーシス主義でいうプレローマ)ですね。
で、これらの記述からイエスは「真我探求者」「真我体現者」でありサマーディ(禅定)を体現した「ヨーギー」であることがわかります。いえヨーガ・マスターでしょう。
で、イエスが真我(梵天)を前提にしていることは、その後の記述でも浮かび上がってきます。
ちなみに梵天は超長寿の神です。「永遠の命」は、梵天の超長寿から出てきている概念かもしれませんね。
それにしても「福音」とは「自己の中にメシア(真我)を見出すこと」であったというのは、従来のキリスト教が本当にひっくり返ります。
真の自己(真我)をとり違えている
また「魂の上昇」という章では、「真の自己(真我)をとり違えている」ことを指摘。
文脈から「表面的なもの、物質、言葉、観念などを『自分』と思い込んでいる」と言っていることがわかります。
欲望と無知の根絶
魂の上昇が進むと「わたしを拘束するものは根絶される」「わたしを包囲するものは撲滅する」そして「欲望は終わった。無知は死んだ」と自覚。
この後グノーシス主義特有の言葉で説明が続きます(アイオ-ンのしかるべき時のために、わたしは沈黙のうちに休息を受けよう)。
が、こうした表現はヨーガ的です。この章からも明らかで、イエスは魂(心)の浄化と向上、解放を述べています。
アイオーンとは?
ちなみに「アイオーン」とは、グノーシス主義で遣われている概念です。
「真の神」「高次の霊」を指します。で、アイオーンは複数存在しているといいます。で、アイオーンは「プレーローマ」という超永遠世界にいるといいます。また「両性具有」状態であるといいます。
これ、仏教やヨーガで言うところの「梵天」ですね。梵天は男性でも女性でもない中性的な存在といいます。あるいは男性しかないと。ちょっと整理しますと、
- アイオーン(真の神)・・・梵天(一般的な神を超越する宇宙最高の神)
- プレローマ・・・コーザル界(梵天の住む世界)
- アイオーンの両性具有・・・梵天は男性でも女性でもない中性的な存在
ご覧の通り、見事に一致します。
マリア福音書は、真我(梵天)を説くイエスの教えになっています。
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縁起について語るイエス
あとイエスは「縁起」について説明しています。
「すべての形ある物、すべての被造物は相互に関連して存在する。そして再びそれらはそれ自身のあるべき根源へと解体していく」。
これは華厳経の相依性と同じ概念の縁起ですね。イエスはこの縁起を説いています。
また「全ての物は解体する」というのは、パウロ教で強調する「永遠の命(不老不死)が得られること」が成立しないことにもなります。つまりパウロ教の否定です。
これまた従来のキリスト教がひっくり返ります。
何故病気になるのか?
「なぜ病気になるのか?」それは「病気になることを求めているから」「心をかき乱す錯乱が体全体に生じているから」「善意識になりきっていないから」「だから私はあなたがたに『心満ち足りているがよい、聞く耳のあるものは聞くべし』と言ったのだ」と。
「心満ち足りているがよい、聞く耳のあるものは聞くべし」とは「善意識でありなさい」という意味だったと。
これまたキリスト教がひっくり返ります。
幻視・ビジョンについて
人が幻(ビジョン)を見るのは魂によってでも霊によってでもない。むしろその二つの間にある知性(妄想)によって見る。
イエスは幻視・ビジョンを見ることに価値を置いていなかったことが、この前の文章からわかります。で、幻視・ビジョンは知性が関わっていると指摘。
またマリアが「イエスの幻を見たものの動揺しなかった」ことを伝えたところ、イエスは「何とすばらしい!」と絶賛されています。つまり幻を見ても動揺しないことは良いこととして、イエスは褒めていることがわかります。
パウロのようにイエスの姿を幻視して、それを「復活したイエスに遭った」と早合点し、キリスト教を作ることは、イエス自身は望んでいないどころか、幻視を見て喜ぶなど関心しないということですね。手痛いイエスのお言葉です。
非常に意義深いイエスの言葉です。
パウロは復活したイエスに遭った?~イエスの姿を幻視したアストラル体験
イエスの教えはギャーナヨーガ的
このように「マリア福音書」に伝わるイエスの教えは、「心」にフォーカスした教えになっています。
心を感じ取る感受力を培い、心の汚れを浄めて「真我(梵天)」に達するといった自己観察系(ギャーナヨーガ的)であることが浮かび上がってきます。瞑想的です。
イエス・キリストはヨーガ・マスターだった。ヨーギーだったというのは興味深いですね。
十二使徒ペトロの不満
「マグダラのマリア福音書」は、このようなイエスとマリアの問答になっています。
で、マリアはイエスとの問答を十二使徒のペトロ達に伝えます。
しかし以上の話しをマリアから聞いたペトロは「そんな話し聞いたことがない。これらの教えはなじみのない教えだ」と言って、マリアに対して本当なのかどうかを問い詰めます。
けれどもマリアを攻撃しているかのように映ったため、仲間から「ペトロよ、あなたは前々から怒りっぽい人だ。あなたはまるで敵対者にたいするようにマリアに議論をしかけている」と諫(いさ)められます。で、「救済者はマリアのほうが優れているとみなしていたんだ」と一同納得。
で、「むしろ私たち(十二使徒)は恥じ入るべきだ。救済者が言ったように、私たちは(信仰ではなく真の人間(真我)に達する実践によって)『真の人間』になり、福音の告知をするべきだ」と一件落着して福音書は終わる。
十二使徒はイエスの教えを理解できなかった
マリア福音書からもわかりますが、ペトロをはじめ十二使徒は、心の観察や瞑想的なことが全く理解できなかったことがわかります。
そもそもペトロ達が心を善くすることや汚れについて理解できなかったことは新約聖書に書いてあります。
【マタイ15章18】「口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである」。
【マルコ7章18-23】イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。人から出て来るものこそ、人を汚す。つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 22姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。
ペトロ達はこれを理解できなかったといいます。
なので十二使徒のペトロ達はイエスを祀りあげる信仰に走り、イエスを「神の国の王(メシア)」とみなしたのでしょう。
新約聖書のマリアは罪深い女に描かれてるが・・・
あと新約聖書の中では、マグダラのマリアは娼婦・罪深い女とされています。
しかしイエスが磔刑される場面やイエスの遺体を確認する場にいるなど、マリアは何故か重要なシーンに立ち会っています。
重要なシーンに必ずといって登場するマグダラのマリア。「マグダラのマリア福音書」が伝えているように、本当はマリアこそイエスの弟子の中で最もよく理解していた弟子なのではないでしょうか。
新約聖書・福音書への疑惑
そうなると新約聖書にある記述は、マリアを貶める一方で「十二使徒」を代表的な弟子に仕立てるなど、彼らに都合の良いように脚色された物語(創作文書)である可能性がますます濃厚になります。
十二使徒やパウロよりも優れた人物は、下卑に描いて貶める。そんなプロパガンダをしたのではないかと。新約聖書は、パウロ教の教団パンフレットのような作品。
新約聖書の福音書はかなり創作が入った文書では?
マリア福音書は新約聖書とは異なる内容
以上が外典(正典とされていない福音書)の「マグダラのマリア福音書」。新約聖書が伝えるイエスの教えやパウロが言うこととは全く異なります。
なので「後世の創作?」と思われるかもしれませんが、実は似たような「瞑想的」な福音書はほかにもあります。
それが「トマス福音書」。トマス福音書ももキリスト教がひっくり返るような伝承です。
トマスによる福音書~真我を説くヨーガ的なイエスの教えに驚愕!
ヨハネ福音書は、トマス福音書に対抗して作ったとエレーヌ・ペイゲルスは言っています。
まとめ
で、「マグダラのマリアによる福音書」では、イエスの教えを最も理解していたのは「マグダラのマリア」であるとあります。
で、これに焼き餅をやくペトロの姿も描かれています。なんだか笑えてきますね。
外典とされているマリア福音書に、イエス・キリストの本当の教えが伝承されているんじゃないかとも思います。
それにしてもキリスト教の謎解きは、まるでシャーロック・ホームズやコナン君になったような気分になりますね。