協調性がある人の特徴
協調性。
大事な美徳といわれていますね。
ええ、その通りです。
大事だと思います。
で、協調性がある人には特徴があります。
しかし、協調性には2種類あります。種類なんてあるの?と思われそうですが、あるんですね。
一つは、マインド(観念、心の世界)としての協調性。もう一つは、非マンドとしての協調性。
この2つがあります。
で、結論を先にいいますと、マインド(観念)としての協調性はないほうがいいんです。非マインドとしての協調性はあったほうがいいんですね。
今日は「協調性」があるほうがいいのか、無いほうがいいのかについて、協調性そのものの本質を巡ってお話ししたいと思います。
マインド系の協調性
マインド系の協調性はわかりやすいんですね。意識して、努力して、頑張って作り上げるものです。
少年ジャンプの「友情・努力・勝利」なんてゆーのは、まさにこれ。根性や意志、理念でグイグイ押して協調性を実現し、「友情・努力・勝利」を達成するもの。
てか、これこそが現代における美徳の一つにもなっているわけですね。学校で教わるのが、この手の「マインド系の協調性」。友情・努力・勝利。意志や努力、頭を使って作り上げるものです。
しかし、心の奥では「なーんか違うぞ」と感じるわけです。ええ、感受性の強い人なら、その違和感に必ず気づきます。
非マインド系の協調性
ところが、非マインド系の協調性となると、これとは違う味わい、ニュアンスが出てきます。もっとやさしく、自然で、落ち着きが出てきます。
かといって共依存のようにベタベタ・まったりしたものではありません。そういうのとはまた違います。
で、これこそが心底納得できる塩梅なわけです。
自然な協調性が望ましいが・・・
ところが、このような説明をしますと、人によっては、「そうか、それじゃあ意識して努力して、協調性に努めるのは止めよう」と言い出す人が出てきます。
いやいや、それは違います^^;そういう対応自体が、マインドで行っているわけです。しかも、分離分裂といった怒りの心に根ざす対応です。
だから、この手合いのタイプは、一人超然となって他人を無視し、悪い意味での孤独になります。で、これは同じマインド系でも、最悪のマインドの状態です。いわゆる地獄です。
ちなみに、六道輪廻は、マインドの状態を表した「ランキング」とも言えます。
で、ブッダは、「みんなマインドの世界に生きているんだから、それなら最上のマインドであるのがいいよね、悟りやすくなるし」というニュアンスで言っていたわけですね。
協調性自体は、努力で作り上げることであっても尊いことです。ただ真理の観点からいえば、それは本当ではないよ、という意味だったりします。
マインド系の観念は苦しみをもたらす
で、結局、マインドが強いと、地獄的な対応や発想になりがちなんです。あらゆることが、です。
いくらどんなに説明しても、観念の世界に束縛されている限り、また波動が地獄的ですと、全て地獄色に解釈してしまうわけです。
それなら手を付けず、放っておくのがよいわけですね。
で、世の中には賢い方がいらっしゃるのですが、このことを心理療法にしたのが「森田療法」なんですね。
精神的美徳を言語化することへの問題
言語化の限界。言語化しての説明は、あまり意味がないかもしれません。「知る」「わかる」という行為の危うさです。
結局、言語化すること自体が、混乱を招く恐れがあるわけですね。皮肉なことに、言葉は、言葉に振り回されない人にしか適切に使えないということだったりします。
言葉の意味、観念に巻き込まれ、一体化する習慣が染みついている場合、言葉の世界に触れないほうがいいかもしれません。
距離を置いているほうがいいかもしれません。小説の類は厳禁。てか、小説は、まさに言葉の遊戯です。
本当の協調性とは?
で、協調性も、観念で信じているからよろしくないんですね。観念に落とし込んでいる。宇宙性の実感が伴っていない。
だから、相手を束縛したり、支配する意味を含んだ協調性になってしまうわけです。
こうした観念に取り憑かれた「協調性」は、誠に厄介です。自分では「協調性だ!」と思っていても、その実体は、攻撃・支配・束縛だからですね。
いや、攻撃、支配、束縛の裏返しとしての協調性なわけです。結局、防衛機制からのリアクションだったりします。
非言語化の協調性を身につけるには
協調性もそうですが、どんなに素晴らしい宗教の教え、思想、哲学、常識、一般論であっても、それを観念として「理解」し、理解の状態をキープして握りしてしまえば、あらゆることが「苦しみ」になってしまうということ。例外はない。
ここに気づき、その握りしめをゆるめ、別の状態に開け、観念から離れてスルリとほどけていくようになるのが勘所だったりします。
これが非言語化の状態であって、徳や慈悲といわれている有り様だったりします。で、ここにこそ、本当の協調性があるわけですね。
しかし、ここに開けたら開けたときの落とし穴もありますので、握りしめることへの観察を常にし続ける必要があります。
で、その観察している自分が、どの自分なのかということも勘所であって、誠に精妙な感性と知性が必要になってまいります。
観念的な精神的美徳は争いを生み出す
で、「協調性」を掲げていても、それを観念として理解し、その観念への握りしめが強いと、さすがに「それはおかしい」としか言いようがなくなります。
ただ、本人は「自分は正しい」と信じていますので、心の裏側で、他人を攻撃し、支配し、束縛しようとしていることにまったく気づいておられません。
観念への束縛・とらわれは、本人を盲目にし、無自覚にしてしまいます。誠に厄介なものです。
しかし、この様態こそが一般的に思われている「愛」「慈愛」「平和」だったりします。
今、学校では道徳を教え始めていますが、そういう授業で教えているのは観念としての道徳です。
ある意味、恐ろしいことをしています。正義という名の観念、正しいという思い、善という信念は、落ち着きを奪い、精神をいらだたせ、不安にさせ、そして人を対立させます。
だから宗教戦争が起きるわけですね。宗教戦争の本質は、「正しいと信じている」、その精神作用そのものです。宗教が対立するのは、正しいと信じ込み、教えを握りしめるからです。
知るとわかるは違う
「知る」ということや「わかる」ということは精妙だったりします。
固定的にして観念にしてしまう「知る」「わかる」と、いまこの瞬間に立ち上がる「知る」「わかる」とでは、両者はまったく性質の異なる有り様であることに気づく必要もあります。
以上のことを踏まえて「協調性」があることが望ましい場合と、協調性が無い場合が望ましいことがわかってくるかと思います。
観念的な協調性は争いを生み出しますので、無いほうがいいんですね。