思想や思考はパズルでありゲームのようなもの
10代の頃から、形而上の世界を追い続け、その結論が「限界がある」といいますか、思考・概念とは違うアプローチが必要ということに気付き、全部手放してしまったことがあります。
思想や思考というのは、概念の積み重ねであって、概念や観念というもののパズルでありゲームであったりします。
屁理屈を構築するのと本質的には変わりがありません。
けれども、それまでは、とにかく物事を掘りさげて考えたり、追及のが好きだったものです。興味関心を持ったものは、大抵、掘りさげましてね。
いえね、これは今でも同じです。
ただ向き合い方が変わりました。
概念によって心を一定方向へ向けることもできる
しかし、この概念を組み合わせることで、心をある方向に向かわせることができます。
心を構成しているものと、ある種の概念が一致したとき、心をある方向にスーっと向かわせることができます。
このとき思考の流れと、心の流れが一致するかのようです。思考が優先して、その後に心を追随させていく、そんなテクニックのようなものです。
カウンセリングが有効なのも言葉があるから
言葉によるカウンセリングに効果が出てくるのは、この辺りの要領に長けた人が行った場合に生じる現象であると考えています。
催眠の大家であったミルトン・エリクソンもまた同じではないかと考えます。
ですので、概念といっても決してないがしろにはしません。
概念や観念を構築しても、本当の答えは得られません。論理や理屈では本当の答えは出てきません。ですが、この手法は活かすことができます。
言葉を使ったものは方便であっても価値がある
思考を誘い、それに心を誘導して、同調させると、心理的な改善に効果があります。これは有効なテクニックになり得ます。
文字や言葉による教えや教育に効果があるのは、こうした理由からですね。
そして、こうしたものを「方便」と言っているのでしょう。
が、方便だからといって、無意味ということはないでしょう。
人は言葉によって生きています。言葉を抜きにして生きていくことはできないでしょう。
仮に生きていけるとしても、それは人間らしい生き方にはならなくなります。
言葉により人は生きるし非言語の究極真理「悟り」にも達することができる
言葉があるからこそ、人は、人として生きていけます。そして言葉と心とは密接な関係があります。
言葉があるから、心が生まれる。
心があるから言葉が生まれる。
そして観念なり概念も登場する。
教育も、カウンセリングも、言葉、観念、概念で行われます。
もっといえば、究極の生命真理である「悟り」すらも、言葉であるところまで説明なり誘導ができます。
非言語の世界である「悟り」ですら、ある地点までは言葉で誘うことができるわけですね。
たかが言葉、されど言葉。
言葉は偉大ですね。