今東光(こんとうこう)。
昭和の人ですね。
天台宗の僧侶。
この今東光の「合本 極道辻説法」というのがあって、これが結構面白かったります。
多感な10代や若い人が抱えがち悩みも、俗っぽい観点から、べらんめえ調の歯に衣着せぬ調子でスッパスッパと切って語るしゃべりがおもしろいんですね。
このスッパスッパと痛快に切って、断定して話すことによって、相談者の迷いを断ちきって教え諭す効果につながっていそうです。
もっとも「色物」かもしれませんね^^;
しかし今東光。
俗っぽい人ですが、実は、作家で、国会議員でもありました。
で、もっと驚くのは、ブラヴァッキーが作った神智学にも所属。で、クリシュナムルティとも親交があったといいます。
で、クリシュナムルティの星の教団においては、なんと、今東光は「世界教師」に選ばれています。
うーむ^^;
しかしながら今東光は、現世では幸福になりやすい人だったわけですね。栄華を極めやすい人。
しかし、現世で幸せを得て、栄華を極めやすいからといって、精神的な深みがあったり、悟りを体験しているとは限りません。
世界教師であろうとなんだろと、そんなのはあまり関係がありません。こうしたものは「名ばかり」の肩書きに過ぎません。実体がともなっているとは限らない。
何度か言っていますが、
悟り≠現世的な幸せ
ですからね。これが真実です。
悟り体験があったからといって、現世で幸せになったり、幸せになれるとは限りません。てか、生来のままのことが少なくありません。
仮に悟っても、貧しい人は、貧しいまま。
冴えない人は、冴えない。
優柔不断な人は、優柔不断。
怒りっぽい人は、怒りっぽい。
もっとも怒りっぽいのは、悟りが深まれば改まりますが、悟りの最初の段階では、怒りっぽいままです。
要するに、仮に悟っても、殊に最初の悟りの段階では、それまでと、そう大して変わりがないということです。
ただし、悟りが深くなると、人格的な変容も起きがちです。けれども最初の悟りの段階では、それほど期待はできません。生来のままのことが多くなります。ここが、なかなか理解されにくいところ。
では悟りとは何なのか?
それは段階によっても違ってきますが、最初の悟りでは、自己への認識が変わるだけです。
この「自分」と思っていた存在が、自分ではなかったとということへの目覚め。
この目覚めが、認識が、意識の深い部分で激変を引き起こし、無意識レベルでは、「この自分は自分ではない」ということを知るようになるのが、最初の悟りになります。ただ、それだけだったりします。
しかし、付随する様々な特質もでてきます。慈悲が芽生えることも多かったりします。が、慈悲が強く生じるようになる人もいれば、そうでない人もいます。
あるいは意識が高揚し始めたり、楽天的になったり。反対に、不安になったり、虚無に陥ってしまうことも。
けれども、これらは人によりけりだといいます。十人十色。
ただ、慈悲は大切だと思います。慈悲は強くなるのが望ましかったりします。利他、博愛の思いが強くなること。長い目で見た場合、悟後の修行ではありませんが、慈悲はああったほうが安全ですし、間違いは少なくなります。
慈悲が生じることへの強弱はありますが、差異はありますが、コアは、「自己への認識の変容」にあります。
「この自分は自分では無かった」。無意識レベルで「自分と思っていたこの自分は、自分ではなかった」ことを体験とともに如実に自覚する。目覚める。
これが知的な理解ではなく、本能的な自覚・目覚めとなっているのが最初の悟りだったりします。
ということで、今東光。
べらんめえ調の語りですが、もしかすると目覚めていたのかな^^;?
それはわかりませんが、仮に今東光が悟っていても、べらんめえ調のしゃべりは変わらず、そのままだったかもしれませんね^^;