自我意識の問題・障害は宇宙性の自我で改まる
人の心は常に変化しています。
一瞬一瞬変化し続けています。
数分前の自分、昨日の自分、昨年の自分、、、と見ていくと、実は同じ自分でなかったりします。
自分とは「自我意識」であると説明されることも多かったりします。その自我意識の問題や障害があることも指摘されています。
けれども自我意識は慚愧(ざんき)を伴う自己観察によって改まり、超自我をも超えた宇宙意識といいますか真我といいますか、自利を離れた宇宙性の自分へと啓(ひら)けていくことがあります。
自分ってなあに?
今日は、そんな自我意識にまつわるお話しです。
固定した自分(自我意識)は存在しない
実は、固定した自分は存在していません。肉体をまとっているので、この肉体の塊こそが「自分」と思っている。
この固定した自分のことを「自我意識」「自意識」とかいいます。
心理学では「自我意識」は大切とされています。また「自我意識」と「自意識」は違うともいわれています。
けれども自我意識も自意識も「自分」という感覚から生じている点においては両者は同じになります。
この肉体の塊に「感覚」が生じているため、「自分」という意識が生じていたりします。
「自我意識」「自意識」
で、実はこれこそが「自分」の正体だったりします。感覚に基づく存在感。
感覚が生じている皮膚につつまれた肉の塊
ところが本当は、皮膚につつまれた肉の塊が、ただ連続して変化し続けている姿だったりします。
この肉体は常に変化し続けています。
ゆっくりとですが身体は老いていきます。
変わってゆく。
ここには固有の実体はありません。固定した「自我意識」「自意識」は存在しません。
ただ常に変化し続けています。
5分前、昨日、1年前の自分は似ているところがあっても違っています。
固有の自分なんてありません。神経による感覚が生じる、皮膚に包まれた閉じた肉体。
考えも止まること無、く巡り続け、細胞は分裂し、生命活動を連綿と続けています。
ただ、ただ、連続し続けている。
それが「自分」だったりします。
感覚・思考・感情に巻き込まれて自意識は生まれる
けれども皮膚におおわれ、その皮膚に覆われた肉の塊に「感覚」があるため、この肉の塊を「自分」としてみなすようになっています。
もしも・・・
感覚が無かったら?
思考が無かったら?
感情が無かったら?
もしかすると、この肉の塊を「自分」とみなさないかもしれません。
感覚・思考・感情に巻き込まれているからこそ「自分」という感覚が生じるのでしょう。
で、こうした自意識から離脱していくのが「いまここ」「あるがまま」といった自然体による意識の有り様とアプローチだったりします。
この方法がツボにはまると、ゆっくりと「仮の自己」からの離脱が起きるといわれています。
で、これこそが悟りの技法ですね。
エゴ(自我意識)が肥大すると気づきにくくなる
人間とは一定しない変化し続ける存在です。が、こうした変化の中、心が悪くなっていくことがあります。
悪い方向へ変化していく場合ですね。
こういうことは起きることもあります。
堕落、退廃というのが、これです。
人間は弱いものです。魔が差したり、誘惑にかられるとエゴが肥大します。
少しずつエゴが肥大していくと、その変化を見逃すときがあります。ゆっくりと進んでいくと、気づきにくいこともあります。「ゆでがえる」状態ですね。
少しエゴ(自我意識・自意識)が肥大し、また少しと肥大していく。まさに「ゆでがえる」。
気がついてみると、とても大きなエゴに。
でも変化が小さかったため、それに気付きにくい。自分でも自覚できずに、エゴが大きくなってしまっている。
欲望もそうです。
慚愧という反省心は自己観察
だからこそ自分を省みるということが大切なんですね。「反省心」です。
しかし「反省」といいますと、自分を責めるニュアンスで受け止めるケースも目立ちます。
違うんですね。
反省とは、自分を責めることではありません。自分を「攻める」ことでもありません。
そんな「自虐的な反省」は、むしろ精神に有害です。自分の心を「悪化させていきます。汚染させていきます。
そんな自虐的な反省ではなく、本当の反省が大切です。それを「慚愧(ざんき)」といっています。
本当の反省の感覚です。
これが大切。
で、この本当の反省である慚愧こそ、まさに「自己観察」だったりします。
慚愧という心が大切
慚愧とは「慚(ざん)」と「愧(き)」とが一緒になった言葉です。
慚・・・悪いことをするのは恥なんだ
愧・・・悪いことはヤバいんだ怖いんだ
という心です。
一言でいいますと、「ヤバイよヤバイよ、悪いことはヤバイよ」という感覚ですね^^;
タレントの出川哲朗さんが言っている「ヤバイよ」とは意味が異なりますが、言葉そのものは同じですね(笑)
要するに「悪を恥じて、おそれる心」なんですね。
慚愧は小さな悪も見逃さない
慚愧があれば、小さな悪い変化も見逃すことは無くなるといいます。
慚愧とはまさに「反省」。
「慎み深い」ともいえますね。
慚愧にしても慎み深さにしても、これらは日本人の美徳の一つといわれています。厳密にいえば、本当なのかどうかはわかりません^^;
しかし大事な美徳です。
反省。
慎み深さ。
慚愧と言わなくても「慎み深く」あれば、大きな過ちや、とんでもないことをすることは少なくなると思います。
仏教で「慎み深い」ことを大切にするもの、実は大切な知恵だったりします。
人は過ちを犯すこともあるから反省心が大切
しかし人様のことを、あーだこーだとは言いにくいものです。自分を棚に上げることはできません。
人間ですので過ちを犯してしまうときもあります。愚かなことをやってしまう時もあります。
また娑婆世界で生きている私たちは、理想的な生き方は難しいものです。小さな悪をしながら生きていかざるをえません。
だからこそ「慚愧」。
「反省」。
「慎み深さ」。
これを意識して自分を振り返る。
反省、慎み深いとかいいますと、昨今ではマイナス思考とか言う人もいますが、そうではありませんね。
大切な美徳です。
あるがまま(マインドフルネス)のおすすめ
と、話しが少し脱線しましたが、人間は固定した存在ではないということですね。
常に変化しています。
変わり続けている。
心も、思考も、感情も。
で、こうした変化している肉体の塊を「自分」とみなしてしまうからこそ、苦しんでしまうといわれています。苦しみの原因ですね。
だからこそ「あるがまま」「ありのまま」「いまここ」といった現在に意識を向けてゆく生き方が推奨されるんですね。
「マインドフルネス」ともいわれています。けれども日常生活の中に取り入れていく価値や意義はあります。
あるがまま(マインドフルネス)で超自我をも超えた真我に啓ける
しかし「あるがまま」「マインドフルネス」は簡単に見えて奥の深い有り様です。
普通に観察をしていれば、それは「超自我」になるだけです。健全に育ってきた人の多くが持っている「客観的な自分」ですね。
しかし超自我は、観念の産物です。思いの世界の観念・価値観・概念です。これが意識化されたものです。このことを「第四図世界」の産物という言い方もできます。
「あるがまま」「ありのまま」「いまここ」で啓(ひら)かれてくるのは超自我ではない「自分」です。
これこそが宇宙意識とか真我と呼ばれる状態です。超自我でもなく、解離でもなく、全く別な意識に啓(ひら)かれていった状態。このことを「第五図世界に啓(ひら)ける」という言い方もできます。
自我意識の問題・障害とは、いわば「第四図世界」における自我意識のことだったりします。だから問題が出てきますし、障害とみなされる現象も起きてしまいます。
ところが第四図世界を超えた第五図世界に啓かれていきますと、自我は必然的に安定し健全化していくようになります。
これがいわゆる「善」とか「徳」にかなった有り様だったりします。道徳や宗教で教えている状態ですね。
慚愧を伴う自己観察である「いまここ」を意識していますと、心が悪化したりすることは、ほとんど無くなっていくと思います。
むしろ良くなっていくでしょう。
そうして健全な自我意識、自意識が自ずと形成されていくようになると思います。