キリスト教がもたらしたマインドと文明

初期キリスト教(1世紀~2世紀)の歴史を知り、いろいろと感じています。

きっかけは、エレーヌ・ペイゲルスの著書ですね。

これを読み、複雑な心境になり、いろんな思いがよぎり続けています。

なんていいますか、さまざまな思いが錯綜しているため、まだまとまらないところがあるんですね。

整理がつくまで、多少時間がかかりそうです。

それくらいインパクトのあることが多く、一種のカルチャーショックといいますか、現在でも価値観、それも深いところで漠然と抱いていた常識のような概念が、ガラガラと崩れ落ちていくような感じが続いています。

もしかすると、私の過去世に、キリスト教(グノーシス)と関わっていた生涯があったのかもしれません。なので、インパクトも大きくなっているのかもしれません。が、さて。

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で、結局のところ、現代の社会は、いわば「初期キリスト教」に端を発しているところがあるってことなんですね。

それは、論理的、合理性、客観的、第三者でも理解できることが大切、基準、常識、統一化、スタンダード、標準化、規律規約といったもろもろ。

こうしたことに端的に表れているということ。

もっとも、これらは社会を運営していく上で欠かせないことばかりです。

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しかし。

この社会の有り様は、イエスの教えが「キリスト教」化していくプロセスにおいて登場してきたことだったということ。

端的にいえば、グノーシスーーー瞑想的であり、高次意識・神意識に開眼し、叡智とともにあることを提唱していた賢者グループーーーを弾圧し、消し去っていく中で、作り上げていった諸々。

一言でいえばキリスト教は、それ自身をグローバル宗教化するプロセスにおいて、「マインド(欲深さ、思考)」を強化していったということ。

で、これが「キリスト教」という宗教となって世界宗教になっていったということ。

で、この一方で、グノーシス---瞑想的、高次意識、真我、神意識---を「理解できん」「そんなものを求めるな!」として足蹴にし、否定し、潰してきたということ。

なんとまあ。

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茫然自失の感に陥るのですが、もし、グノーシスが弾圧されず、世界の主流になっていたなら、、、、

地球文明は、まったく装いを異にした世界になっていたでしょう。

言葉の定義にはうるさくなく、ちょっと曖昧で、ゆるりとしている。

法律のようなガチガチに規定したルールは無いか、あっても簡素なものだったかもしれません。

人々は、神意識(真我)に根ざしている感覚で生きているため、基本的に大丈夫。心配は要らない。

内部から生じる善の感覚に基づき、創造的に生きるようになるため、細々として規定や規律は要りません。

各人の内部感覚にしたがって生きていけば、基本的にOK。無問題。

そんな社会。

そんな社会をもたらしてであろうが、グノーシス。

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この様は「宇宙的」。

そう、他の惑星の皆さんとほぼ同じような有り様であり、地球人も宇宙人的になったであろう、ということ。

しかし、これを阻んだのが、否定したのが、潰してきたのが「キリスト教」。

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現在知られているキリスト教は、誰もが分かるように「普遍化(これをカトリックといいます)」に努めてきたということ。

普遍性が必要なので、定義化・言葉化を行い、誰がみてもわかる行為そのものを---中身・質よりも---重視する。で、組織を重視して巨大な組織を作り上げて普遍化を成し遂げようとする。で、複雑化し、ストレスが多くなる。が、これで善しとする。

しかしこれとは正反対に、厳密な定義化・言葉化することなく、また誰がみてもわかる行為そのものよりも中身・質を大切にする、さらには組織を否定してシンプルなグループで善しとする様。

これがグノーシス。瞑想的。高次意識的な表れだったということ。

けれども、こうしたグノーシスに対して、正統を自称するキリスト教(パウロイズム)は認めることができなかった、いや、そもそも理解できなかった。

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で、そんなグノーシスが不気味に思えたのでしょう、グノーシスに対して潰すための「理論武装」などを始めます。マインド武装です。

その際に登場してきたのが、論理、合理、客観、第三者でも理解できる普遍性、スタンダード、標準化、基準、統一といった産物。

これらは現代社会にもみられます。といいますか、このように規定しないと許されないのが社会。世の中。

が、これらは、瞑想的、高次意識、グノーシスを潰していく過程で考案され、発展してきたということ!

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これがわかったとき、地球の文明、地球におけるスタンダードというものが、実のところ愚かな感性に基づくだけでなく、高次意識を足蹴にしてくる中で登場してきたということ。

この驚き。

なんとも言いようのないモヤモヤとしたのが渦巻き、と同時に、今まで「常識」と思っていたこれらのことが、ガラガラと崩れ去っていくような感覚に。

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論理、合理、客観、第三者でも理解できる普遍性、スタンダード、標準化、基準、統一。

果たして、これらはどこまで必要なのか。

もっと内部感覚、直観、感性に従っていいのでは?

常識という一種の概念----それはグノーシスを陶太する中で培われてきたキリスト教的マインド----に必要以上に縛れる必要はないんじゃないの?

極論をいえば、どうでもいいことなのでは?

てか、低い感性、低い波動向け様が、「論理、合理、客観、第三者でも理解できる普遍性、スタンダード、標準化、基準、統一」といった諸々。

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こうしたことが感じられ、わかってくると、自分の中で何かがガラガラポンしていくのを感じます。

科学への疑問。いえ、正確にいえば、「科学的」ということへの疑問

科学的というのは、誰でもわかる客観的で事実に基づくことをいいますね。また誰もが再現できること。

しかし。その誰でもわかる、再現できるというのは、普遍性、統一、標準化という前提があるからこそなんですね。

で、その普遍性、統一、標準化を求めるのは、畢竟、これががないと困る、不安になるからなんですね。

で、不安は、真我に開けていないからこそ生じてくる迷いでもあって、外側(現象)に振り回されることが多いから抱く感情でもあるわけですね。

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実際、真我的な感性である「あるがまま」「いまここ」にあると、不安は減っていくようになります。完全に無くなることはなくても、軽減します。

わからないと不安になり、不安であるが故に、基準や標準、ガイドライン、普遍性を求め、それを安心材料にするわけですね。真我的な感覚が無いか乏しいからです。

だから、目に見える「安心材料」を求め、それこそが、論理、合理、客観、第三者でも理解できる普遍性、スタンダード、標準化、基準、統一なわけなんですね。

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こうしたことがわかってくると、現在の文明の根底にある、これらのマインド的感性は、果たして本当にいいのかな?と思えてくるわけですね。

現在の地球文明・社会に対する根源的な疑問と問いです。

こうしたことが、初期キリスト教の歴史を知ることで浮かび上がってきたということなんですね。

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人類の歴史は「強いマインド(欲の深さ、鈍感さ、心への無知、思考の強さ)」がもたらしていることが明々白々になってきたような。

もちろん、マインド的なものもある程度は必要なのかもしれませんが、いや、究極的には不要かもしれない。

論理、合理、客観、第三者でも理解できる普遍性、スタンダード、標準化、基準、統一。

これらは、真我的な感覚がわからないからこそ必要とされ、低波動がもたらす産物なのではないかと。

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そういえば、秋山眞人さんが別の惑星へ行ったときの話しに、「宇宙人達の社会には、小さな政府と、簡単なルールがあるくらいで、宇宙人達は各人の内部感覚に基づいて生活している」といったことを言っていたんですね。

そう、この内部感覚とは「真我」なんですね。神意識といってもいいでしょう。

こうした真我的な感覚に開け、より深く根ざすようになってくると、マインド的なこと---論理、合理、客観、第三者でも理解できる普遍性、スタンダード、標準化、基準、統一、科学---といったものが色あせてくるような。

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初期キリスト教の歴史を知ることで、社会的なもろもろが、いろんなものが、ガラガラと崩れ落ちていくような感覚になります。

どれだけ恵まれていても、社会的に著名であっても、ポジションにあっても、「ま、そういうもんだよね」「それはよかったね、でも二次的なものだよね」というのが、ますます腑に落ちていくようでもあります。

こうした「側(見た目のもの)」に満足したり、とらわれ、求めることは、「そう大したことではない」といった感じが、ますます深まっていくような感じにもなります。

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一部のスピリチュアルでは、お金持ちになる、豊になる、人生に成功する、願望が実現するとかを強調するところもありますが、ま、そういうのもいいけれども、それよりももっと大切な意識、感性があるよねーといった感が強まるといいますか。

初期キリスト教の時代、グノーシスを陶太し潰していった一方で、マインドを強めていったことは驚きであり、この衝撃は今もなお、自分の中で何かが崩壊し、そうして何かが新しく再構築していくような感があります。

このプロセスというか崩壊はまだまだ続いています。しばらく続くかもしれませんが、地下ではなにかが胎動している感もあって、今、大きな変化の真っ直中にいます。

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キリスト教。

これこそサタン(悪魔)の産物だったことがよくわかります。反キリスト---神意識、真我、高次意識、叡智、愛を体現していたグノーシスを陶太し、消し去ってきたーーーは、キリスト教そのものだったわけですね。

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