キリスト教はパウロが作ったユダヤ教(ファリサイ派)のアップデート宗教だった

キリスト教はパウロが作った宗教だった

キリスト教。
ここのところずーっとキリスト教を勉強しています。で、ようやくキリスト教がわかってきた次第。

キリスト教は「イエスを信仰する宗教」「イエスを信じれば救われる」「愛の宗教」なんて思われています。

で、これはこれで間違っていませんが、教義や歴史を勉強するとより深いことがわかります。で、驚くことにも多々遭遇します。

中でも「キリスト教とは、イエスに一度も会ったことがないパウロという人が作った宗教だった」という事実。

で、キリスト教とは、イエスの超人ぷっりを聞きつけて、イエスを旧約聖書の預言に当てはめ、イエスを御輿に担いで作ったパウロ教だったということ。

また「イエス信仰」と「イエスの死と復活」が何故、最重要視されているかといえば、パウロが元ファリサイ派であることと関係している点。

他にもありますが、まー、これらには心底、驚きました。

ユダヤ原理主義教団(ペトロ・ヤコブ派) vs 異邦人教団(パウロ派)

イエスが亡くなった直後、ペトロが率いる十二使徒と、ガラリアからの500人が融合してエルサレム原始教団を形成。その後、ペトロが逮捕されてからは、イエスの義理の弟であったヤコブがリーダーに。

しかしヤコブは、昔ながらの律法を重視するユダヤ教スタイルで、イエス信仰を始めるようになったとか。ユダヤ原理主義教団です。

が、一方で、ユダヤの民以外の異邦人が、イエスを信仰する動きも。この異邦人によるイエス信仰グループのリーダーとなったのが「パウロ」。イエスをユダヤ教に組み込んだグローバル型ユダヤ教

ちなみにパウロは、生前のイエスに一度もあったことがない人。で、聖書は、パウロ派の文書です。で、その聖書には、律法主義なヤコブ派と争うシーンも(ガテラヤの信徒への手紙 2.11-14、使徒言行録15

で、このパウロ派が、現在のキリスト教のルーツ。パウロ派が主流となるのは、イエスが亡くなって20~70年くらい経ってからのようです。

イエス信仰グループは多数あった

イエスが亡くなった直後のあらましは、ざっとこんな感じであるとか。ちなみに当時は多くの「イエス信仰」があり、バラエティにも富んでいたようです。

エルサレム原始教団(ペトロ・ヤコブ派)や、異邦人系教団(パウロ派)のほかに、複数の「イエス信仰」グループがあったようです。

中には信仰ではなく、観察系の瞑想を主体とした「イエスの教え実践」グループも登場しています(これがグノーシスと言われるようになる)。

そもそも創造主の取り扱いにも違いもあったと。

  • ユダヤの唯一神ヤーウェを立てる派(これがパウロ派を筆頭とするエルサレム教団派)。
  • 創造主を2神とする派(マルキオン)。
  • 多神教的な12神とする派、30神とする派、365神とする派(グノーシス)。
  • ユダヤ創造主は「低劣の神」「悪の神」とみなす派(グノーシス)。

ご覧の通りで、創造主への理解だけでもバラエティーに富んでいます。こうした「イエス信仰グループ」が多数あったようです。決して一神教だけではありません。

パウロ教の熱心な布教により最大派閥に

で、この中の一つであった、ユダヤの唯一神ヤーウェを立てる「パウロ派」が怒濤の布教活動を展開。

「パウロ」を開祖とするユダヤ人グループ、チーム・パウロは、母国のイスラエル以外の国々にも布教し、破竹の教勢拡大を行います。

その結果、地中海沿岸の国々(エジプト、トルコ、ギリシア、イタリア)にパウロ派の拠点(教会)を次々に構築。

で、イエス信仰の中でも飛び抜けて、最大主流派になります。圧倒的な派閥を形成したようなものですね。政治活動とそう変わりがありません。

パウロが考案したイエス信仰とは?

で、パウロが考案した「イエス信仰」とは、以前も書きましたが、ダイジェストでまとめると、

  • ユダヤ教(旧約聖書)を基にしている
  • ユダヤの唯一神ヤーウェを立てる
  • イエスの「死」と「復活」が最重要の教え
  • イエスの「死」と「復活」は旧約聖書の預言で解釈
  • ユダヤ人以外も信仰ができるグローバル型ユダヤ教
  • 信者は奴隷、女性、子どもなど下層の人達が中心
  • パウロの教えと違う派閥は徹底的に侮蔑し排除

このような特徴があります。イデオロギー&戦闘型宗教なんですね。

ちなみにパウロが作ったキリスト教のあらましについては、こちらでも書きましたので、あわせてお読みください。

キリスト教を簡単にいえばイエスの「死」「復活」がキモのユダヤ教

パウロ教はファイリ派(律法主義)を意識している

で、こうした教義の根底には、パウロの経歴が関係しています。

そもそもパウロは、ユダヤ教のファリサイ派。ファリサイ派は律法主義。宗教の戒律を守る一派。一日600以上の戒律を守っていたといいます。

またファリサイ派は死者(預言者)の復活を信奉。「肉体のまま復活するぞ」、そういう教義ですね。

ファリサイ派は、律法を守ることと、復活はあると信じられていたという特徴があったユダヤ教一派。

で、パウロは元ファリサイ派。
なのでパウロ教(キリスト教)は、ファリサイ派よりも優れているとしたい。パウロは、自分が考案(発見)したイエス信仰のほうが優れていることを強調したい(せざるを得ない)。

パウロ教(キリスト教)には、そんなパウロの思惑が表れていると考えられます。実際、教義を分析すれば、それが浮き上がってきます。ファリサイ派とパウロ教を比較すればわかります。どういうことかといえば、

  • 律法主義信仰主義への大転換(律法ではなく、イエス信仰を義とする大転換)。
  • 復活信仰 ⇒ ユダヤ教では今までに「復活」はなかった。しかしイエスが初めて「復活」した(と信じたい)。ユダヤ教史上快挙となる出来事。これも大転換になる。

ご覧の通りです。パウロ教は、ファリサイ派を意識していることが明らかです。

キリスト教教はファイリ派のアップデート宗教

このように「イエスを信仰する」ことと「イエスが復活した(とする)」2点は、キリスト教の特徴にもなっています。実際、この2つはユダヤ教(ファリサイ派)をアップデートできる要素

しかも、これら2点は、元ファリサイ派のパウロにとって、ファリサイ派よりもダントツに優れていることを強調するためにも、パウロ自身を納得させるためにも、絶対に欠かせない信仰上の教義になることは容易に想像もつきます。

実際、キリスト教では、イエス信仰とイエスの「死」と「復活」は根本的な軸になっています。最重要です。これらに反すれば、異端認定。敵認定。中世の頃は処刑対象。

パウロ教(キリスト教)は、ユダヤ教のファリサイ派に対抗した新興宗教であり、ファリサイ派を超えようとした宗教といえます。

信者獲得に熱心だったパウロ派

で、パウロ派は「とにもかくにも信者を獲得、改宗」という勧誘だったようです。で、知的な人には勧誘しないで、入信しやすい人達をターゲットにして信者獲得していたといいます。

現在の新興宗教と似ていますね。で、当時は「カルト」と言われていたようです。

以上のことはバート・D・アーマン「書き換えられた聖書」にくわしくあります。

偽善になるおそれがあるパウロ教

ところでパウロ教で気になるのは倫理の実践(善行)です。パウロ教では、善行のとらえ方がちょっとズレています。

たとえば善行を行うことで、救われるようになるためとか、神のためになるとか、他から批判されないための防衛策とし善行を奨めています(ペトロの手紙一2)。あるいは敵対者の口封じのために善行を奨めています(テトスへの手紙2)

また教団内の統制のために、善き信徒(命令にしたがう従順な信徒)になることを遠回しに言っています。

このように、心を浄めることですがすがしくなることが善ではなく、神や他者を意識した仮面的な善や、教団統制のためになっているのがキリスト教(パウロ教)の「善」の特徴です。

この姿勢は問題をはらみます。というのも表面的な善行、形式的な善行、あるいは偽善になることがあるからですね。パウロ教は、宗教的には問題を含む教義だったりします。

で、パウロ教では、心を浄めるという発想はなく、善行も二次的。どこまでもイエスの死と復活を信じる「イエスによる救済信仰」だったりします。極論すれば、イエスに助けを請い願う信仰です。

外典にイエスの教えが正しく伝わっている?

ちなみに外典とされている「マリア福音書」や「トマス福音書」には、執着が問題であることや、自らの内面を見つめること(自己観察、内観)、心を浄めることを示唆するイエスの教えが伝承されています。

どちらが本当のイエスの教えなのか。推して知るべしでしょう。

といいますか、パウロ教はイエスの表面的なところ(奇跡、印象的な言葉)だけを見て「信仰対象」にして作った宗教ということですね。

イエスの深遠さが理解できなかったペトロ達の証言を元にしているんじゃないかと思います。

というか、グノーシス的なことを聞いてもサッパリ理解できなかった。深遠なことを言う人達に対して、「よくわからん」「うぜーよ」といって拒絶。

その結果、現代の新興宗教のような「祀りあげてありがたる」簡素な「信仰」スタイルになったんじゃないかと思います。

旧約聖書の預言を重視したパウロ教

あとパウロ派は「イエスが残した教えや実践」を掲げていません。掲げているかのように見えて、実際は掲げていません。一般的な倫理として教えを語っています。グノーシスのほうがイエスの教えや実践に基づいています

パウロ派の信仰は、イエスを御輿に担ぎ、旧約聖書の解釈に基づいた「イエスによる救済思想」です。「信仰」というよりは「思想(イデオロギー)」

で、このパウロが考案した「イエス信仰」が現在のキリスト教になっています。

パウロは愛憎共に強かった

で、パウロは愛憎ともに強い人で、自分の考えにそぐわない「教義」や「人物」に対して、徹底的に攻撃し排除。異端、悪魔扱いします。

相手を「呪う」ほどで、その言葉は今でも新約聖書にも載っています。この光と闇の強さ、愛憎の強烈さがパウロの特徴。

で、後のキリスト教も、自らの教えとは異なる「教義」や「人物」に対して異端扱い。排除、封殺、焚書、殺害、処刑。この世から完全に消し去ったことは周知の事実です。

で、創造主を2神、12神、30神、365神に仕立てた信仰グループはすべて排除。グノーシスは邪教として排除。封殺。

初代教会とキリスト教成立の歴史

これがキリスト教の歴史です。初代教会の歴史。で、この性格は十字軍、魔女狩り、南米インディオの大虐殺などなどに繰り返して出てきます。

キリスト教は、パウロ派の性格がそのまま継承されているといっても過言ではありません。

キリスト教が成立していく歴史は、ザックリいえばこういう塩梅。つまるところ「声の大きい者の勝ち」「言ったもん勝ち」のようなものです。

数あるイエス信仰グループの中で勝ち抜いたのが「パウロ派」。主流派、トップを目指して派閥争いに勝利したのが「パウロ派」。闘争型宗教の原型がここにあります。

しかし実態は、イエスとは直接関係がなく、イエスを御輿に担いで一神教に組み込んだ「ユダヤ教のアップデート宗教」だったりします。

ローマ帝国時代は腐敗の極みだった

初代教会(キリスト教初期)を彩る「パウロ」と、「パウロ派(教)」について書きましたが、これらを知ったときにはビックリ。心底、仰天したものです。

それまではフワっとした感じで「キリスト教っていいよねー」なんて思っていましたが、キリスト教のことをガッツィリ勉強すると、印象が180度変わってしまったほど。

キリスト教のイメージが崩壊したものです。完全崩壊。

パウロ教は現在の新興宗教と変わりがありません。カルト宗教的でもあります。もし現代にパウロ教が登場すれば、世界的にも大バッシングを受けるでしょう。

パウロは過激な性格だったわけですが、しかしこの当時(ローマ帝国時代)は、世の中そのものが非常に荒んでいたといいます。

モーゼス「霊訓」が伝えるローマ帝国

たとえばモーゼスの「霊訓」という書には、ローマ帝国時代のことが述べられています。

いわく「放蕩、肉欲、卑俗、悪徳に浸りきった。聖なるものが全て逃げ出した。非情さは絶望的、陰気さは墓場のよう。当時あったのは不信のみ。それよりも悪かった。神を冒涜し、侮蔑し、神をさげすみ、すべての徳をあざ笑い、神を愚弄。永遠の生命をののしり、ただ食べたり飲んだりの放蕩三昧の日々。人間は、堕落しきった動物だった。」と。

霊訓 ステイントン・モーゼスという霊媒師

すさまじいですね。これ以上の酷さはないくらいです。まさに悪徳がはびこる時代だったようですね。

こうした暗黒の時代に、超人的なイエスが登場し、世間を驚かせ、人々の善心に火を灯す運動が起きたということかもしれません。

ちなみに聖書に伝わるイエスの姿からいえば、イエスも挑発的なことを言ったり、暴力的になるなど、人間臭いところも多々あった様子です。

時代そのものが荒れ狂い、悪がはびこる時代だったのでしょう。

悪徳が蔓延する時代だったからこそパウロが活躍

で、悪徳が蔓延する時代だからこそ、パウロのような人が中心になったのかもしれません。

「毒を以て毒を制する」

パウロは愛憎共に強いといっても、仲間への愛情と手厚いサポートの様子は、聖書の行間にも表れています。決してリップサービスではなかったと思います。

「最悪からの脱却」

これがこの時代のテーマだったのかもしれませんね。

で、当時の人間のレベルに応じた教え、それがパウロ教でありキリスト教。そう言えるかもしれません。

現代の基準で2000年前の時代を推し量ってもあまり意味がないかもしれませんね。

聖書には過激な言葉が目立つ

それにしても聖書には過激な言葉が数多く並んでいます。

また別の機会に書くかもしれませんが、紹介するのもはばかるくらいのキツイフレーズもあります。昔の2ちゃんねる並かそれ以上。

そもそも中世のキリスト教神学者ですら、2ちゃんねる並の罵詈雑言を、平気で公の前で言っていたほどです。そういう記録もあります^^;

すさまじい。中世の頃ですら、学者からして誹謗中傷は当たり前だったようですので、2000年前は言うに及ばず。

しかし、人類は、こうして2000年をかけて少しずつ良くなっていったのかもしれません。

聖書には改竄されている

ちなみに聖書といえば改竄されているといいます。そもそもキリスト教神学では200年前から指摘されているとか。

これらのことはバート・D・アーマン田川建三氏が著書で述べています。

イエスの復活は後世の追加?

たとえば「イエスの復活」は後世の追加であるといいます。

というのも福音書の元祖・始祖となるマルコ福音書。マルコは16章8節で終わっていたと。「恐ろしかったからである」で終わっていたと。

が、これでは問題があるので、マタイ福音書、ルカ福音書は、マルコ福音書を参考にしながらも「イエス復活」を追記して作成。

が、「イエスの復活」は創作だった。キリストが肉体を持ったまま復活した話しは、後世の追加。創作。

イエス復活が後の追加であることは、聖書学の世界では「常識」であるといいます。

パウロは元ファリサイ派(復活信仰があると信じていた派)なので、イエス復活の話しを信じたのでしょう。いや信じたかった。

なので、あやふやな噂と知りながらも、イエスが復活したことを既成事実として布教するようになってしまった。しかし引っ込みがつかなくなった。

が、マルコは真実を知っていた。イエスは復活していなかったを。だから福音書では言及しなかった。

が、矛盾に気がついたパウロ派は、マタイやルカの福音書では「イエスの復活」話しを挿入。

なんといっても「イエスの復活」は、パウロ教の中核。絶対に外せない。

外せばパウロ教が崩壊する。他の派に主導権、主流の立場を取られてしまう。是が非でも主流派のポジションを死守したい。

で、後になってから、オリジナルのマルコ福音書にも追加。改竄。

おそらくこんなところではないかと思います。

⇒【関連】イエスの復活は本当?

当時には必要だったパウロ教だが・・・

このようにパウロが作った宗教には問題があることがわかります。しかし、パウロが作った宗教は必ずしも充分とは言えないものの、当時には必要充分だったのではないかと思います。

悪徳が蔓延する絶望的な当時にとって、パウロが考案したキリスト教は、福音であり救済となり得たんじゃないかと思います。

しかし今の時代に、2000年前に考案された「パウロ教」が果たして充分に役立つのかどうか。

聖書の随所に出てくる過激な言葉やネガティブな言葉、暴力的な言葉は、読む者の心を痛ませます。傷つけます。ショックを与えます。

2000年前は、暴言や呪いを吐くことは当たり前のように行われていたのかもしれませんが、聖書のドギツイ言葉は、現代では有害です。精神に悪影響を及ぼすことは否定できません。

また聖書は改竄されています。キリスト教神学では200年前から指摘されています。

ここは虚心坦懐に受け入れて、見直す必要があると思います。事実は事実として受け入れる。認める。信仰という名の盲信に陥ったり、キリスト教に多い救護的な詭弁を弄することなく、悪い点は悪いとして認める。

パウロが考案したキリスト教は2000年前には有効だったものの、現在は見直しが必要じゃないかと思いますね。

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