キリスト教とは解釈の宗教~体験重視の仏教とは決定的に異なる

キリスト教は「解釈の宗教」

キリスト教。
キリスト教は「解釈の宗教」ですね。人間の解釈で作った宗教。

このことはキリスト教の誕生と歴史を追っていくと、はっきりしてきます。

そもそもキリスト教の信仰とは、

  • イエスへの信仰・・・イエスじゃ完全なる神の子であり人間(キリスト論)、父とイエスと聖霊は同じ(三位一体論)
  • イエスの奇跡を信じる・・・神の子としての証
  • 処女懐胎の信仰・・・母マリアは聖霊によって処女懐胎してイエスが生まれた
  • 贖罪信仰・・・イエスの十字架の死は人類の原罪を背負って(償って)くださった死(ユダヤ教のアダムとイブの原罪論が根底にある)
  • 復活信仰・・・イエスが復活することは旧約聖書のダビデ預言にある(復活したイエスは永遠の命を持ち救済者となった)
  • 終末信仰・・・終末の日にキリストは再臨し、イエスを信じていた者は復活し、最後の審判が下され、新天地創造となり、千年王国が実現。
  • 聖霊信仰(聖霊体験)・・・イエスが約束した聖霊によって愛の目覚めが起きて救済される体験(宗教体験)

こういう信仰になっているかと思います。

しかし、これらのうち「聖霊体験」以外は、すべてイエスの言行を旧約聖書の預言を当てはめて、パウロらが教義を作り、信仰にしたものです。

聖書は、聖霊がもたらしたといいます。が、実際は人間が作成したフィクションでもあって、決して聖霊が書いたわけではありませんね。迷信です。

イエスの言行にしても、使徒が受けた啓示にしても、それはリアルであったとしても、それらを解釈をして教義を作るのは第三者です。特にパウロが深く関わっています。

が、パウロにしろヨハネにしろ、イエスに対して思いを巡らして、イエスの「言行を解釈」して教義化し、キリスト教という宗教にしたのは歴史的な事実でしょう。どこまでもイエスが作った宗教ではありません。

で、このように「解釈」によって宗教となっているのは、世界的に見ても特異だったりします。他の宗教は先に「宗教体験ありき」です。で、「体験の言語化」をして教義が作られていきます。

キリスト教を簡単にいえばイエスの「死」「復活」がキモのユダヤ教

キリスト教の性格は西洋人の認知と社会性にある

で、何故、キリスト教はかくも「解釈」の宗教になってしまったかといえば、それは「西洋人(中東を含む)の認知の特徴」によるものだからと考えられます。

それと関連してキリスト教は、他の宗教のように自らの心の内面を深化させることよりも、奇跡や言行の表面的な解釈を好み、また社会との関わりに関心が向いたからであろうと推察しています。

言い換えると、世俗に生きる人達によって作られた宗教であるため、心の内面を深く見つめるのではなく、どうしても表面的な理解になってしまう。そんな西洋人の気質も関係していると思います。

で、こうしたことが、やがてキリスト教を力づくでも布教し、政治的にも権力を握り、中世の腐敗と堕落にまで進んでいく潜在的な原因にもなったのでしょう。

イエスは何を説いたのか?

ちなみにイエスは何を説いたのでしょうか。それは簡単明瞭。「倫理」です。もっとも単なる「倫理」ではありませんね。神を実感することが根底にある倫理です。

で、イエスの教えの中核は【マルコ12・30-31】にあるように、「神を愛すること(実感すること)」「隣人愛の実践」に集約されますね。

で、これが聖霊体験によって心の奥深いところから自覚できるようになり、意識に変容が起きて、生まれ変わります。

キリスト教神秘主義の瞑想体験も同じです。

ルターの「塔の体験」の本質もこれです。またカルヴァンの「突然の回心」もこれです。

二人に何が起きたのかは不明とされていますが、「聖霊体験」あるいは「神の愛をともなった一瞥体験」といわれる覚醒体験が起きて、イエスが説いた神と倫理が実感できたんだと推察しています。

で、こうした体験こそイエスが伝えたかったこと、望んだことなんだと思います。

で、最初にもまとめたキリスト教における信仰は、後に作られた解釈と教義に基づくものですね。

キリスト教はマインドの宗教

キリスト教は、イエスの言行や奇瑞、初代教会で起きたペンテコストの奇跡や使徒の体験の「伝聞」を元にして教義化が進んでいます。

もちろんキリスト教以外の宗教などでも、誰かの体験を基にして観念的な教義を作っている宗教もあります。しかし、それは少ない。一般的に、解釈は宗教ではなく、思想や哲学となっています。

その点キリスト教は、教義そのものが観念的であり、解釈で作られています。いわば哲学的です。殊に神学は哲学化しています。

たとえばイエスの贖罪論(十字架で処刑されたことで人類の罪がゆるされたとする信仰)は、アウグスティヌスの「罪と恩恵」という解釈で教義化されています。

またトマス・アクィナスは哲学と神学は別といいながらも、ギリシア時代のアリストテレスを元にして神学を論じ「神学大全」も著しています。

キリスト教はマインド(思考)の宗教ともいえます。「解釈」をして観念的な教義を作り、宗教化しています。このようなマインド(思考)が強い傾向は、キリスト教の際だった特徴だったりします。

キリスト教にも「体験を言語化」したものもある

ただしキリスト教においても「体験」はあります。体験を言語化したものもあります。

それは使徒達の「聖霊体験」ペンテコストの奇跡、中世のキリスト教神秘主義(修道士)による「神と合一する瞑想体験」。あるいは、ルターの「塔の体験」、カルヴァンの「突然の回心」もそうですね。

これらはリアルな体験です。で、これらの宗教体験や神秘体験を言語化しています。

ただしキリスト教は体験に基づく教えは少なく、ほとんどが「イエスの言行や奇瑞」を解釈した上での教えになっています。

キリスト教は基本的に瞑想体験を受け入れない

しかも、キリスト教は、基本的に理解できな瞑想体験や宗教体験は受け入れようとしません。

イエスが復活したというあり得ないことは受け入れても、修道士たちの神秘体験は弾圧するといった矛盾した歴史もあります。

たとえばエック・ハルトら中世の修道士による瞑想体験(神秘体験)は、その後、認められることがなくなり、弾圧を受け、迫害されるようになります。

結局、イエスは特別、別格にして、教会が理解できない(受け入れると教会の権威に問題が出る)信徒の奇跡や奇瑞、神秘体験は、排除、異端扱いにしてしまう。

キリスト教信仰を守るためには排除

キリスト教は、イエスを特別にすることで信仰が成立しています。で、これを脅かす思想に打ち勝ち、排除もしてきています。

たとえば初期の時代には「グノーシス思想(物質は悪であるとする思想)」が幅を利かせていました。で、グノーシス思想では「物質は悪」と言っているため、理屈の上では、キリストの受肉(人間イエス)も悪になってしまう。

そうなるとイエスを聖なる存在をみなすことができなくなり、信仰の対象にできなくなってしまう。そこで、グノーシス思想を排除。異端扱い。

これはキリスト教の初期の頃の話しですが、最初からこういう歴史があります。聖書の「外典」もそうです。

結局、「キリスト信仰」を脅かすもの、教会にとって不都合な思想や解釈は全て排除。人間であれば処刑。

これがキリスト教の歴史です。で、こうした点からもキリスト教は「解釈の宗教」と言えるわけですね。「暴力の宗教」といっていいかもしれません。

理解できないことは排除か強引な理解

こうした傾向は、いわば西洋人の残念な特徴ともいえますが、結局、理解できないことは、

・排除
・屁理屈をつけてでも強引に理解する

この2つです。
で、初期キリスト教において「三位一体論」や「キリスト論」はさんざん論じられましたが、結局、イエスを神格化して純潔な信仰をするために、強引につじつま合わせをして基本的な教義すら作ったともいえます。

キリスト教は、どうしても理知的・思考・マンドレベルにとどまろうとする性格があります。瞑想体験など、理知的に理解できないものは排除、拒絶する性格があり、世界でも稀(まれ)な愚かな宗教といえます。

しかしこの愚かさは、キリスト教そのものが教会を中心に世俗との関わりの中にあり、また教会が国家に対抗するほどの権力を持ったこととも関係があります。

仏教は「体験の宗教」

キリスト教が「解釈の宗教」ということは、キリスト教だけしか知らないと、おそらくピンと来ないと思います。

ちなみに仏教は「体験の宗教」です。
そもそも仏教は「体験ありき」です。
瞑想や戒律などの「実践」「修行」を通して、すべて自分で直接、宗教的な体験をして、それを言葉化したのが「教え」になっています。

原始仏教においては、観念的に考察したり、哲学的に思惟して教義を作ることは一切しません。といいますか、そのような観念的な教義構築に対して、ブッダは全否定されています。

事実、ブッダは体験を重視されていました。で、自らが体験したことを言語化、体系化することもすすめていました(これが後のアビダルマとなります)。

また、ブッダだけでなく、そのお弟子さんたちの多くが、ブッダと同じ境涯にいたっていました。つまり悟りですね。ブッダも弟子もみんな同じ「悟り」にいたっています。

で、ブッダと同じ弟子たちがブッダの言行や修行を伝承し、その後の同じようにブッダと同じ悟りにいたる人を生み続けてきています。もっとも途中で途絶えてしまうことも起きましたが。

キリスト教と仏教とでは奇跡への理解も異なる

それとキリスト教と仏教とでは、奇跡への理解・受け止め方もまったく異なります。

キリスト教は奇跡に驚いて教義化した

キリスト教では、イエスが起こした奇跡、復活などを「解釈」して教義を作っています。

極端な言い方をすれば、ミスターマリックが100円玉にタバコを貫通させたマジックを見て、感嘆して、そこに意味づけてをして宗教を作ったのがキリスト教といえます。

イエスの奇跡を見てビックリして、そこに意味づけをして宗教化しているわけです。構造的には、ミスターマリックの手品を見て宗教化することと同じです。そういうことになります。

ちなみに、このことを皮肉って映画にしたのが「猿の惑星」です。この映画では、猿人たちは核兵器ミサイルを神としてあがめています

核兵器ミサイルの恐るべき破壊力に驚き畏敬した猿人は神としてあがめます。このことは超能力や手品を見て驚き畏敬して宗教化することと、心理的な構造はまったく同じです。

仏教は奇跡を解明し再現する

ところが仏教は、奇跡奇瑞に特別な意味づけはしません。まして教義化などまったくしません。

といいますか、奇跡奇瑞が起きるメカニズムも解明し、修行の仕方まで伝承しています。言い換えると、仏教は奇跡奇瑞の解明している上、それを再現する修行法もあるってことになります。

言っては悪いのですが、キリスト教とはまったく次元が異なります。

仏教にも奇跡がある

で、仏教にも奇跡があります。
仏教では奇跡とは言わずに「神通力(じんつうりき)」といっています。超能力のことです。

たとえば、ブッダは、集団でガンジス河の飛行したり、体を巨大にしたり、多くの体を生み出したり(分身)、テレパシーが使えたり、死後の行き先を透視したり、前世を透視したり。

あるいは、全身から火焰と水を同時に出したり、濁流する川底で水滴一つつかずたたずんでいたりするなどの超能力(奇跡)も日常的に発揮していました。

しかもブッダのお弟子さん達も同じような奇跡を起こしていました。

風(嵐)を起こしたり、空中を飛んだり、霊を見たり、火をおこしたり、はてまた草木で作った頭飾りを黄金に変えたり、あるいは馬車を作ったり・・・そんな超能力(奇跡)を、お弟子さん達も発揮されていたんですね。

いわば「みんなイエスと同じだった」というのが仏教です。しかもブッダよりも、お弟子さんのほうが知れ渡っていた人が何人もいたくらいです。

仏教では奇跡を重視しない

ちなみにブッダは、こうした超能力(奇跡)は、つまらないもの、恥ずかしいものとしていました。

なぜかといえば手品やトリックでも似たようなことができからだといいます。

またビックリすることを見せつけて仏教の修行をさせるのは、レベルの低いことだからだといいます。

仏教は解釈を重視しない

またブッダは「過去から伝えられて正しいとされてること、みんなが正しいと言っているからといって、それを鵜呑みにしてはいけない、自分で確かめてから受け入れなさい」と言っています。

さらにブッダは、「何らかの神なり宇宙創造神を信じることはしてはいけない」といさめています。

つまり本来の仏教では、信仰に対して否定的。

宇宙創造神にしても、信じるのではなく、それを如実に体感体現することをすすめています。

仏教は、何らかの奇跡や奇瑞、始祖となる人を「解釈して信仰の対象にする」ことはしません。

実際に修行をして体験することをすすめ、体験したことの言語化をしています。なので観念で教義を作ることはあり得ません。

ただし後の大乗仏教には、観念で作った教えも紛れ込みます。法華経が代表的ですが、しかし法華経は仏教ではありません。で、ブッダの姿勢は体験重視です。事実実物のリアルを重視します。

仏教ではキリスト教のような信仰はあり得ない

ですので仏教の姿勢でいいますと、イエスが起こした奇跡や、十字架に処せられたことへの教義的解釈(人間の罪を背負われた)、復活信仰、終末信仰というのはあり得ないんですね。

仏教的な姿勢では、キリスト教は誕生しなかったということになります。

ですのでイエスが神なのか人なのかという神学論争は起きようがありませんし、イエスへの信仰という姿勢も起きようがありません。

仏教的な姿勢とキリスト教的な姿勢とでは、まったく異なるとういうことなんですね。

もしイエスがインドに登場していたなら、キリスト教のような形態にはならなかったでしょう。奇跡も十字架の死も、「あーそうですか」で終わっていたと思います。復活にしても「どんなトリックを使っているよ?」と問い詰められたりして、不思議な現象にほとんど興味も示さなかったでしょう。

で、そんな表面的な不思議な現象に関心を寄せて意味づけをして宗教化することよりも、心を浄め、精神の深みに至る教えと実践に注目し、それがあれば宗教化していったと思いますね。

こう言ってはなんですが、やはり2000年前の北アフリカや中東の人達のレベル、また西洋人たちのレベルに応じて、解釈が多く形式的な形態のキリスト教という宗教になっていったんだと思います。

なお仏教といっても、日本の仏教のようなエセ仏教、なんちゃって仏教があり、こうしたなんちゃって仏教では、キリスト教のような「解釈の宗教」になっているものもあります。

仏教とは、原則「原始仏教」を指します。

キリスト教はヨーガ、タオ、神道とも異なる

ということでして、仏教とキリスト教はまったく異なります。全然、異質といいますか、次元が異なりますね。

また、キリスト教は、ヨーガ、タオ、神道とも異なります。

ヨーガ、タオ、神道も実践重視です。
ヨーガは、実践して体験体得することをも目的としています。タオもそうです。

神道にいたっては、体験の言語化する避けてきた歴史があります。祝詞も啓示だったりします。

世界の多くの宗教は、観念的に教義を作ることはあまりありません。なんらかの奇跡や奇瑞を解釈して信仰することもしていません。

水をワインに替えたからとか超能力を発揮したからといって、その人に深い意味や価値を与えて信仰することはありません。

キリスト教は西洋人の性格が出ていると思います。レベルが低い。だから戦争ばかり行っている。

ただしキリスト教の中でも、「聖霊体験」や、「キリスト教神秘主義における瞑想修行によって神と合一する」ことは、解釈ではなく体験です。この2つだけは、キリスト教における素晴らしい点ですね。

まとめ

キリスト教は世界でも稀(まれ)で特異な宗教です。ひとことでいいますと「解釈の宗教」です。人間が作った宗教です。「マインド(思考)の宗教」。

そんなキリスト教を知るためには、歴史から学ぶのがおすすめですね。

同時にキリスト教を知ることで、仏教、ヨーガ、タオ、神道などの特徴が際だって理解できるようになります。コントラストがはっきりしてきますね。

で、キリスト教(アブラハム系の宗教)と、その他の世界宗教というように、大きく二つに分けることができそうです。

キリスト教は、世界でも特異な「解釈の宗教」だったりします。なので分派も非常に多く、おそらく分派の多さも世界一でしょう。論争も多く、そうそう「戦争」がもっとも多い宗教ですね。

キリスト教は、霊性をうたいながら、宗教体験をした人は少なく、実際は知的理解や雑な探索が多く、しかも社会との関わりにウェイトを置いた、いわば新興宗教やスピリチュアル的な気質が本質であり、意識の深化が不得手な宗教となってしまったともいえます。

言い換えれば、宗教体験を求めつつも、それがわからないために知的な理解や哲学に走り、しかし宗教体験は知性とは性質が異なるため、いっそう迷える状態となり、その迷走する積み重ねの歴史がキリスト教であり、やがては国家と対抗するくらいまでの政治権力集団に成り下がってしまったともいえます。

キリスト教は、一番最初の十二使徒の理解とパウロの時点から、ボタンをかけ違いています。同じ「解釈」でも表面的な解釈にとどまっています。

知性や理性のみでの解釈ではなく、本当の解釈は、実際に宗教体験をして霊性に開眼し、その体験と霊性に基づいて考察することになります。この姿勢が仏教、神道、タオ、ヨーガになりますが、キリスト教は霊性を唱えながら霊性に乏しい。

しかし「塔の体験」をしたルターや、「突然の回心」をしたカルヴァンは、本質は聖霊体験と同じ宗教体験をしています。で、リアルに体験した人が、キリスト教を是正する活動・改革を行ってもきています。

なので今後も、リアルな体験をしたクリスチャンの中から、キリスト教の欠陥を修正して、もっとまともな宗教に立ち戻らせる回帰運動を起こす人は続々出てくる出てくることは、容易に想像ができます。

キリスト教は、人類(西洋人)の業の表れでもあり、人類のレベルが端的に表れた宗教であり、政治であり、経済であり、文化であろうと思います。

 

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