金星人の徹底した平和主義
金星人オムネク・オネク。
彼女の体験、話しは、真偽のほどは、率直なところわかりませんが、参考になります。
オムネク・オネクが語る金星人の世界・科学・教え
で、オムネク・オネクのこちらの本に、とても良いことといいますか、かなり考えさせられることが書いてあります。
抜粋いたします。
金星人は反撃を仕掛けることはありません。それは彼らの精神的信条に反するのです。
多くの存在達は、これを弱々しいとみなしていますが、金星人はいかなるものでも破壊しません。
彼らは、裁くことも批判することもしないのです。
ここを読み、うなりましたね。
いや、こうしたことは言葉で説かれるときはよくあります。聞き慣れた言い回しであるかもしれません。
しかし、オムネクの場合、単なる言葉の羅列ではなく、ここに「リアリティ」を感じました。
表面的なものではなく、心底の部分からの言葉であると感じるわけです。ですので、ズシっと来るわけです。
「徹底した平和主義」。
単なる言葉ではなく、これが「身についている人達が実際にいる」という事実に重みを感じるわけです。少なくとも自分としては。
「反撃しない」「攻撃しない」の実践は難しい
「反撃しない」とは「攻撃しない」ということ。
これを地で行うのはかなり難しい。
少なくとも、実生活においては、かなりの困難と苦悩を引き起こします。
おそらく、人からも誤解を受けて軽んじられるでしょう。オムネクの言葉にある通り「弱々しい」と思われますし。
足元を見られたり、場合によっては、からかいやすい人になります。下手をすると、ダメ人間の烙印を捺されます。
さらには、人格障害とかにカテゴライズされて病的な人とされたり。今の時代、何でも病名を付けますし。
まあ、おかしなレッテルや烙印を捺されるのがオチでしょう。
それだけ、現代は、攻撃性のファクターの絡みで社会も構築されているということです。
反撃しない人は偉大な人格者
「反撃しない」ということは理屈として理解できても、いざ現実に生きていくとなると、、、、これは大変。
こうした道を歩んだことのある人なら、皮膚感覚でおわかりでしょう。徹底した平和主義の実践は、困難をともないます。
しかも、裁くことも批判することもしない。
うーむ。
唸ります。
実践レベルでは、相当な難行になります。
ですので、「反撃もしない」という人は、本当、偉大なる人格者であると思います。
一見すると弱そうに見える人であっても、本当は、とても強い。
魂が進化している。
深く考えさせられます。
金星人の平和主義と仏教の預流果
反撃をしないだけでなく、攻撃もしないという姿勢。オムネク・オネクら金星人としてのスタンス。
うなります。
「平和主義」
「無抵抗」
「反撃しない」
こうしたメンタリティは、仏教でも目指して修行もします。
しかしこうしたメンタリティに至るには、少なくとも預流果(よるか)になる必要があります。
現実的にいえば。
預流果(よるか)とは、悟りの初門の入った人をいいます。初門といっても、凡人とは天と地の開きがあります。
ちなみに預流果になった人は、極めて少ないものです。ほとんどいないでしょう。
預流果になると自己防衛するエゴが無くなる
なんといっても、預流果(よるか)は、自分へのこだわり、むやみに自己防衛するエゴがありません。
これを専門的に言えば「有身見(うしんけん)が無い」といいます。
「有身見」とは自分へのこだわりや、永遠不滅の自分がいるという無意識レベルまで染みついた考え方をいいます。
「有身見が無い」というのは、つまり「無我」なことをいいます。「悟った」ということです。
要するに。
オムネクは、さらりと、「反撃をしません、裁きません、批判しません」と言っていますが、この根底には「無我」な状態があると思います。
無我で無ければ、全うすことはできません。
もしかすると、オムネクの指摘は、「そうなるように努めている」という意味も含まれているかもしれません。
仏教の平和主義と金星人の平和主義は似ている
「反撃を仕掛けない」というのは、大変意味深といいますか、唸るくらいのことだったりします。
仏教的精神を、別の言い方で表現したようにも受け止められます。仏教の平和主義と、金星人の平和主義は似ています。
こういう細部における哲学といいますか、物の考え方が原始仏教に相通じる所があって、納得してしまいます。
原始仏教には、他の思想とは異なる特異性がありますが、こうした特異性と、金星人の教えがマッチする所があります。
ここに興味を抱きますし、有益な教えであると思う次第です。