私がたどってきた不思議なスピリチュアル人生と体験~ブログを書く意義

ここのところブログの更新頻度が高めになっています^^

やはり文字で表現しますと、自分の頭の中を精密に整理することができるんですね。

「精密」といっても、トークよりも精密ということですね。

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今ではすっかり、散歩しながら瞑想などの話しをして、それをYouTubeにアップすることが多くなっています。

言葉で話すことが多くなっています。

ですが、私の場合、トークはどうしても大雑把になる感じなんですね。

もっともその大雑把さが、むしろわかりやすいと感じる方もいらっしゃるかもしれません。

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が、私の場合は、ザックリしすぎていて、時々、文字化して精密に表現しないと、どこかモヤモヤとしたのが残るんですね。

なので、こうして記事をタイピングして文字化・文章化することで、頭の中を整理することができて、どこかスッキリもするんですね。

こういうのって、たぶん私の特性・特徴になるんじゃないかと思います。

考えを正確かつ的確にまとめることで落ち着く、スッキリする。

思考をきちんと文章・文字化するのが、私の性分に合っているんじゃないかと思います。

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ところで、世の中には、実にトークがうまい人がいるんですよね。コミュニケーション能力も優れている。

こういう人は、どんどん仲間を増やしていき、いわゆる人脈を容易に作り上げていきます。

こういう人をリアルで見ていると「すげーなー」と思いますね。本当に驚くべき能力です。

そういう才能を生まれながらに持ち得ているんでしょうが、マジモン、素晴らしいんですよね。

で、こうした人が、世に出て活躍もしていくんだと思います。

今、将来、著名になりそうな人をリアルタイムで見ている、そういう人もいます。おそらく伸びていくと思います。

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しかし私の場合は、どんどん仲間を増やして人脈を作っていくといった才能やコミュニケーション能力は乏しいですので、地道に活動していくことになりますね^^;

で、これでいいと思います^^

人それぞれ、才能・能力というのがありますからね。

その天分に感謝して、活かすことが大事だと思います。

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と、この辺りでミュージック。

‘Sunset Avenue’ (FAWM#21 2025)

恒例のState Azureさんのアンビエントですね。

いつもいい塩梅です。

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で、トーク。

私の場合は、やはり文字にしたためて文章にすることをしていく必要があるなあ、と。

文字化・文章化することで、頭の中の整理もできて、スッキリします。

考えなどを文字にすると整理がつきます。

心の中も整理できます。

思えば、こういうことを18才の頃から行っているんですよね。

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自己観察を行っていた10代後半。18才の頃から「書きなれノート」と題して、思うこと感じることを文字にして書き続けることをほぼ毎日行っていたものです。

「書きなれノート」とは、大久保忠利さんという方が提唱していたワークなんですね。

そういえば、昔つづっていたこちらのブログに「書きなれノート」のことを書いていましたね。

大久保忠利さんの「書きなれノート」~思考や感情を言語化・コトバにすることの大切さ
https://yurubosa.hamazo.tv/e7239133.html

自己観察をしていると、いろんなことが去来します。

そうしたさまざまな思いの中で、大切であったり、ひっかかることはノートに書いていって、頭や心の中を整理する。

こういうのを確か、見性体験(一瞥体験)が起きる数ヶ月前まで続けていたんですね。

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そういえば、見性体験(一瞥体験)が起きた後、文章の中身がすっかりかわってしまったんですよね。

これは自分でも自覚があったものでした。

物事を俯瞰的、鳥瞰的に、全体的にとらえるようになったものです。

また上手な言語化への関心もよりいっそう高まったものでした。

確か、当時、縁のあった人の影響もあったと思います。

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その人は、心の様を上手に言葉化していたんですが、それを聞いて「すごいなー」と思いましてね。

ただ、その方が語る内容は、どこか重たく、深刻だったんですね。なので「こういうのはよくないなー」と感じたものでした。

しかし、さまざまなことを上手に言語化することへの興味がいっそうわいて、おもしろいなーと思ったものでした。

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が、心の精妙な領域や、精妙な物事を言葉化する場合、重たくなったり、深刻になるのは、よくないんですね^^

精妙な領域、微細な領域になればなるほど、サットバ(善性)に基づく「いい感じ」が必要になってきます。

ここからズレると、ちょっとマズイんですね。てか、ヤバイ^^;

で、この感覚そのものが、瞑想と同じだったりします。

正確にいえば、瞑想を行う基本姿勢、有り様。自己観察の基本姿勢。

非常に大事なことだったりします。

こうして文字化していると、忘れていた昔のことを思い出すこともあるんですね。

で、これもまた頭の中、心の中、記憶の整理にもなります。

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私にとって見性体験(一瞥体験)は、まさに人生を一変する体験だったものです。

しかも、先生や師匠、師家から教わることなく、自分で暗中模索し、試行錯誤を繰り返す中で起きたものでした。

いわゆる「無師独悟」「独覚」というものです。

見性体験(一瞥体験)は、悟りではないんですが、しかし創造主・神・宇宙に開眼する尊い体験なんですね。

そこに、自力で開眼。

自力で、しかも16才から始めて21才で開眼するというのは、もしかすると過去世、前世からずっと行ってきていることなのかもしれません。

よくわかりませんが。

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けれども、私の場合、それが見性体験(一瞥体験)であるとわかったのが、体験が起きてから約30年後だったわけですね。

随分と時間がかかったものでした。

しかし、時間がかかったお陰で、この体験にありがちな「慢心」によるリスクや闇落ちしなかったのは幸いだったものです。

仕事で苦労をしたり、人生が思うようにいかなと思うこともあって、おごり高ぶる環境でなかったことも幸いしたと思います^^;

もっとも、内心「いい気になると危ういぞ」というシグナルがあったことは確かなんですね。

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体験が起きて約20年後にテーラワーダ仏教にシフトしたんですが、シフトしてしばらくすると、突然、エネルギーの覚醒体験が起きましてね。

またエネルギー的にはっきりと天とつながる体験が起きたりもしたものでした。

しかし、テーラワーダ仏教の文脈には、チャクラやエネルギーの概念がありませんし、まして宇宙とつながる・溶け込むというのもありません。

なので、「一体これは何なんだ?」と戸惑い、そうしてこれまた独りで模索することになったものです。

そうして、アドヴァイタやノンデュアリティーの世界を探索している中で、「一瞥体験」「見性体験」というのを知って、自分が体験したことと同じだったり、非常によく似た体験をしている方々がたくさんいることを知ったものでした。

で、ここからさらに体験が深まるようになって、さまざまなことがわかってきたものでした。

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結局、見性体験(一瞥体験)は悟りではないということ。

しかし宇宙に開眼し、宇宙意識(真我)に開け、神の愛(慈悲)を感得する貴重かつ尊い体験であること。

また本質は、エネルギー体験。

しかも、見性体験(一瞥体験)はスタートであって、ここから「それ」に溶け込む、一体化して深めていく必要があること。

そのプロセスにおいては、奉仕(利他)、慈悲が欠かせないこと。

また「あるがまま」「いまここ」というあり方が、深めていく上で欠かせないこと。

こうしたことも体験・経験をしながら感得していったものでした。

やがて日常的に広がる意識(宇宙意識)が定着し、心の成分も変容し、エネルギーが発動するようになって、エネルギー系のワークもできるようになっていく。

イエス・キリスト、ヨーギー達の能力は、「それ」に深く溶け込むことで生じる能力であったこと、精神性であったことがわかります。

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で、こうしたことは洋の東西でも言われています。

インドのヨーガやウパニシャッドでは「梵我一如」。

仏教では「善(善性)」。

タオでは「一(いち)」。

キリスト教では「父に溶け込む」「合一」。

これらは全部、同じことを言っています。

で、現在、覚者といわれている人は、全員、これらの有り様を語っています。

体験や感得に深い浅いがあるため、その話しの内容に違いがありますが、しかし本質は全員同じです。

真我(宇宙、宇宙意識)ということですね。

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しかしブッダが説いた「悟り」は、これらとはまったく性質が違います。

だからブッダは、あれほどまでに「涅槃の独自性」を強調されたんですね。

悟りとは、認識のあり方が変わること。記憶が絡まない認識がわかること。

真我体験、見性体験、一瞥体験は意識が変容すること。

悟りと、これらとはまったく異なります。

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こうしたことが、求道を始めて40年近く経ってからわかってきたものです。

私の歩みは、これからも続くと思います。

16才のときに、インドの輪廻転生を知った時に、ものすごい衝撃ーーーそれは体に電流が走って、何かの箱の扉が開くかのような感覚があったのですがーーー「自分は解脱するために生まれてきたんだ!」と強烈な衝動がわき起こり、爾来、ずっと歩み続けています。

もっと遡れば、子どもの頃から創造主・サムシング・グレートを、木々や草といった自然の中に感じていましたからね。

小学三年生のときは、野原を眺めていたところ、偉大なる存在を感じて感激し、「自然は友達!」なんて感じていましたからね。

センス・オブ・ワンダーを地で行っていた子ども時代です。

スピリチュアリティ(霊性)の天分があったと思います。

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けれども、こういう人は世間では浮いてしまったり、変人といいますか、奇人の類になると思うんですが、しかしながら理解や賛同してくださる方々がいることは、本当にありがたく、うれしく感じます。

必要としている方には、惜しみなくアドバイスをしたり、サポートをしていきたい。

そういう衝動といいますか、モチベーションもあるんですね。

やはり長い間、誰にも言うことが無かったたったというのもあると思います。

昔は、そもそも理解していただける人がいなかったものです。

宇宙意識やら神の愛だとか、エネルギーが覚醒したといっても、一般的には理解されませんからね。

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近所のお隣さんと話しをするときは、ごくふつーの一般人ですし、どこかの集まりやコミュニティに顔を出せば、ふつーの一般人と同じです。

こうした場で、覚醒やらエネルギーの話はできませんし、話しをすれば「は?」「大丈夫?」と思われますし、そもそも場違い過ぎます^^;マナー違反ですからね。

また、「自分を特別視」するような考えを、無意識のうちに醸成することは危うい。

この道は、落とし穴や危ういところもあって、まるで白刃の上を歩いているところもあるんですね。

充分に気をつける必要があります。

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なので、こうしたブログで、あまり話しをするのも本当はなんなんですが^^;、しかし、ブログで、少しずつ、ちょっとずつ書き始めていく中で、理解者や賛同者が出てきたことも事実なんですね。

なので、こうした体験をお話しをするのも、タイミングとか雰囲気とか、そのときのフィーリングというのもありますね。

が、慎重にしていく必要があるかなあと、今でも感じています。

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それにしても、こうして気の赴くままに書いていますが、やはり頭の中や心の中すスッキリしますね。

もしかすると、今日書いていることを、きちんと文字化、文章化したかったのかもしれません。

今まで歩んできたこと、たどってきたことーーーその中には黒歴史もあるんですがーーーを言うことで、役に立つ、学びになる方もいるのではないかと。

この界隈における誤解や混乱に、一筋の光を提供して、真我体験や覚醒体験、チャクラ覚醒などに関して、もっとクリヤーにすることができるんじゃないかと感じるものがあります。

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しかし、なかなか勇気が要ることなんですね。また覚悟も必要になりそうな。

あいやー、そういうのは面倒アルヨ、と思うところもあって、結局、お気楽路線になっているんですが、いろいろと思うところ、感じるものがあります。

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けれども、ご縁のある方々が、しあわせな意識や認知になり、高次意識に開眼していく、そういったお手伝い、サポートはしていきたいと思っています。

やはり、人が根本的なところからしあわせになり、高い意識に開けていくことはうれしいですし、楽しいんですね。

充実感をおぼえます。

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と、こんな感じで気のおもむくままにタイピングをしていますが、気が付くと5000文字以上!

ま、これが文字化、文章化の醍醐味であって、私は、こうした文字化、文章化することでスッキリする、整うところがあるかなあと思います。

昔のことは、いろいろと忘れてしまったこともありますが、こうして文字化していると、思い出すこともあります。

ブログを書くのは、やはりいいですね(^o^)

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