気づきとは智慧のことであり頭部系チャクラが絡んでいる

ディープな瞑想の話しでも?しましょうかね^^

とはいっても、あんまりディープな話しといっても、思想、観念、知識、概念で追求してしまうのはいけませんからね。

瞑想などの世界は、体感・体験がすべて。想像をめぐらして追求するのはおすすめではないんですね。

体験、体感に基づいた上での推理はまだしも、話しを聞いたり、読んだりして、その知識を基にして、想像、思い、観念からの探求は止めたほうがいいですね。これは、ハッキリしています。
 

そういうこともありますが、たとえば「気づき」。この「気づき」は実に曖昧な位置づけだったりします。

テーラワーダでは「気づき」を「念」といっていますが、げんみつに言えば、これは誤りみたいですね。

超弩級の発見

テーラワーダでの「念」とは、「動中禅」のことです。一つのことに集中して、それを一日中保ち続けることです。動中禅。

それが何故か「気づき」として扱われています。が、これも19世紀近代におけるテーラワーダ仏教における仏教改革運動と関係があります。この話しは少し煩雑になりますので割愛いたしますが。

しかしげんみつにいえば、「念」は「気づき」ではないといいますね。で、確かにそうだと思います。
 

けれども「気づき」という状態はあります。「念」ではないのですが、「気づき」はあります。

で、どうやら「気づき」とは「智慧」ではないかと思っています。智慧。

智慧には、「気づき」としかいいようがない広がった感覚があります。てか、「気づき」とは、「智慧」の性質を言い表した言葉じゃないかと思うわけですね。

で、近代のテーラワーダでは、この智慧を「気づき」といって、「念」とすり替えてしまった。ごちゃ混ぜにしてしまった。

ごちゃ混ぜにしても、実習上は、それほど問題?にならないため、それで「念」を「気づき」としても大丈夫になっているんじゃないかとも思います。たぶん、そんなところだと思います。
 

ところで、この智慧(気づき)の背後には、エネルギーがあります。エネルギー。つまり、アジナチャクラ、サハスララチャクラといった頭部のチャクラですね。「気づき」の背後には、頭部のチャクラの活性がからんでいると思っています。

といいますか、「気づき」が生じてきて深まると、かならず付随して頭部のチャクラの活性が起きると思います。

あるいは、見性して「気づき」が生じると、うっすらとアジナーチャクラなどの頭部のチャクラの活性が始まります。

しかし単なる「気のせい」ではないんですね。ジンジンするとかいった、そういうものでもないんですね。そもそも頭を使えば、眉間がジンジンするときもあるくらいです。チャクラが活性すると、まったく別の体感が生じます。

「気づき」が生じ、深まるにつれて、それに不随して頭部のチャクラが活性するといったほうがいいですね。

チャクラが先ではなく、「気づき」が先です。
智慧が先。
智慧が生じるから、チャクラが活性する。
見性するから、チャクラが活性する。
こういう流れですね。

なのでチャクラを活性しようとして、眉間にウンウンと集中しても、たぶん「気づき」は生じないと思います。

アジナーチャクラには、複数の作用があって、気づき、超能力などがありますが、悟りに必要なのは「気づき」です。「智慧」。超能力は、おまけみたいなものではないかと思います。
 

ただし「気づき」を生じるプレゼンスの方法として、アジナーチャクラのある「視床」に気づき続ける「ステート・オブ・プレゼンス」という方法があります。

「ステート・オブ・プレゼンス」は、まさに「気づき(プレゼンス)」の発生源であるアジナーチャクラの震源をダイレクトに気づき続ける瞑想の仕方です。瞑想というよりも、そういう日常生活の過ごし方ですね。

「ステート・オブ・プレゼンス」はパワフル。私も、この方法で、気づきが強まり、気づきの正体がわかったくらいです。実習を始めて3ケ月で明瞭な結果が出てきました。
 

が、こうした瞑想の方法もさることながら、並行して大事なのがあります。それが「慈悲・ハート」ですね。

これが身につき、深まっていくことが大切なんですね。すくなくとも並行して行っていく必要があります。

で、瞑想だけでなく、日常においても、他人に親切に、やさしく。人々の支えになるように自分を磨き、サポートできる人間になることもまた大事です。志として。まずは志として、こういうのが必要なんです。

慈悲・ハートは、生命が生活する上で、健全な社会性を育みます。高次元な社会、人間関係を育み、生命が生きている間、慈悲・ハートは必須になるんですね。また、能力の発生源です。

慈悲・ハートが豊かになるに従い、高次の能力が生じるようになります。慈悲・ハートが、智慧や丹田とからむと、能力の開花につながります。このことは意外と知られていません。
 

実際、禅定ができるようになったとかの人もいます。が、智慧が生じているとは限らなかったりもします。というのも、某サリン宗教でも、禅定ができた人はいるんですね。

禅定ができるからといって、その人に智慧があるとか、霊性が優れているとかはまったく関係ないんですね。

実際問題としては、禅定ができる人に問題のある人もすくなくありません。結局、智慧が磨かれていないからなんです。智慧が育っていない。なので禅定だけで終わってしまうのは、リスキーだったりします。

ブッダの方法では、禅定は、あくまでも深い智慧をサポートする手段に過ぎないんですね。智慧が大切。

でも智慧だけでは、これまた実際のところ、問題も生じているように思います。慈悲・ハートも大切。

慈悲・ハートがサポートし、禅定もまた智慧をサポートするといった感じですね。

智慧、慈悲、禅定、つまりプレゼンス、ハート、ビーイングの3つそろうのが王道であり、ブッダが示した道ですね。

と、そんなわけでして瞑想に関する話しでした。

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