人の欠点ばかり指摘する人は暗く陰気な性格をしている
人の欠点ばかり指摘する人がいます。
粗探しですね。
もう人の欠点や短所ばかり目に付く。で、それを言葉で指摘したり、嫌味な態度で示そうとする人がいます。残念ながら、こうした気質の人はいますね。
しかしながら人の欠点ばかり指摘する人、粗探しをする人は、実は、その人自身が「残念な性格」をしています。
常に否定的であり、ネガティブな感情に包まれています。常にです。
パっと見で、やさしそうに映っても、一日のほとんどが、気持ちが晴れず、むしゃくした気分で過ごしています。
その人自身が、常に暗く陰気な気持ちでいるため、見るもの、聞くモノの全てが色あせて、否定的に見えてしまうわけですね。
なので周囲の人の欠点ばかり指摘するようになるわけですね。粗しか見えないわけです。なので「残念な性格」というわけですね。
人の粗探しをする人は避ける
もし粗探しばかりする人がいたなら、距離を置くようにして、できるだけ近づかないほうがいいでしょう。こうしたマイナスの性格は、伝染病のようにうつる性質もあるからです。
自分の心を明るく保つようにすることは大切です。精神的な悪しき汚染に染まらないことが最善策なんですね。
で、これを基本軸として、ネガティブな人との関わりを避けるようにしたほうがいいですね。深入りは禁物です。
人は誰でも欠点・短所がある
そもそも人は誰でも欠点・短所があります。
それが強いか、弱いか。
あるいは、今強く出ているか、出ていないか。
程度の差こそあれ欠点・短所を持っています。
欠点・短所がない人はいません。
欠点・短所というのは、「煩悩」とも言えます。エゴ、心グセ、葛藤、抑圧、PTSD、トラウマ等々、こうした心の歪み等の全てですね。
で、こういうのは必ず表面に出てきます。
表情、言葉、動作、筋肉、気に出てきます。
ですので、敏感な人は、これをキャッチしていきます。
欠点は自覚するのが望ましい
ただ、敏感にキャッチしたからといって、それを臆面もなくズケズケと言うのはよろしくありません。たとえ分かっていてもです。
誰しも闇を持っているからです。また、その闇の矯正は、そう簡単にでいない場合もあるからですね。
ですので、本人が、いつかどこかで自覚する、
気付くのが望ましくなると思っています。
とはいっても、なかなか自覚が出てこない場合もあります。ですので、「いまここ」「マインドフルネス」をおすすめしています。
自己観察をすることですね。
自分と向き合うこと。
そうすれば、誰でもやがて自己の姿を垣間見るようになり、気付くようになります。
自分の欠点への無自覚さは成長の停止
しかし、自己の本心に気付いてショックを受けることも少なくありません。これをいかにして克服していくかもテーマとなります。
実のところ一時で終わるものではなく、常日頃、見続け、一生続けていくことだったりします。
結局、「気付く」という作業をしなければ、永久に「分からない」ままです。自己の成長が止まったままになります。
ですので自覚するためには、「気付く」「自己観察」が欠かせなくなります。
なので「いまここ」「マインドフルネス」というのが必要なわけですね。
目に余る場合は第三者が指摘する
ところで、短所等で、酷い場合や、目に余るときは、第三者が指摘してあげたほうがよいと思います。周囲にも多大な迷惑をかけてもいるからです。
時々、事件を起こす人もいますが、そういう方々の中には「悪いとは思っていなかった」という仰天するようなことを言う人もいます。
こういう人には、幼少の頃からしっかりと「物事の善し悪し」を言い聞かせて、教育しないとならないでしょう。
しかし「物事の善し悪し」がわからないというのは大変です。これは、大変危険なメンタリティだからです。
罪悪感が無い心「無慚・無愧」とは恥知らず
罪悪感が無いというのは、実は、最も危険な精神だったりします。仏教では「最悪の煩悩」とまで断じて戒めているくらいです。
なぜ最悪かといえば、平気で悪を為し、無意識のうちに悪業をどんどん作っていくからです。要するに悪魔のような存在になるからなんです。
仏教は、罪悪感の無い心を、
無慚(むざん)
無愧(むき)
として、極めて強く戒めています。
無慚(むざん)無愧(むき)も煩悩です。
要するに無慚(むざん)無愧(むき)とは、「破廉恥(はれんち)」なことをいいます。「恥知らず、善悪の分別が無いようではいけませんよ」ということです。
逆にいえば、無慚・無愧への感性を、より鋭敏にしていくことが大切ともいえます。
人の欠点はやたらとあげつらわない~長所を見る
それと、周囲に迷惑をかけることがないなら、人の欠点をあげつらうのはやめたほうがいいですね。
欠点は、なかなか改善できないことが多くなります。長い長い間、取り組むことも出てきます。
人から指摘されると、長い間、恥を持ち続けることも出てきます。人から指摘されるよりも、自分で気付くようにしたほうがいい。こっちのほうがいいんです。
相手の欠点を見抜く鋭い眼力があったとしても、その鋭敏な眼力は、長所や優れた点を見つけることに使うことが望ましくなります。
他人の短所しか見えないのは危険
ただ実際は、相手の欠点はよく見えても、長所が見えないという方が多かったりします。
これは、ある意味、発展途上の眼力といえます。あんまり言いたくないのですが、意地が悪い、性格が悪いとこうなります。
本当に眼力を持った人であるなら、相手の短所も長所も両方見えるようになります。
相手の短所がよく見えて、それだけをあげつらうのは実は危険でもあったりします。
鋭敏な感性は、心の深い部分と関連しています。心の深い部分がネガティブに染まっていると、物事の欠点ばかりが見えるようになったり、ネガティブな寸評ばかりしてしまうようになります。
これもまた危険な兆候です。「いまここ」「ポジティブシンキング」などを実習して、心をクリーンにしていくことが必要ですね。
ハッピー・プラスの気分がおすすめ
ですので相手の短所は気付くだけにとどめて、そっとしておく。最初から知らなかったことにする。良い点を見るようにする。
誰しも完全な人はいませんしね。
みんな欠点を持っていますし。
ですので、お互い様になるわけでして、同じ生きるなら神々のようにハッピーであるのがいいんじゃないかと。ハッピーとは、簡単にいえばプラスの気分です。
あんまりごちゃごちゃと重箱の隅を突っついてあら探しをしたり、批難や批判だけに終始するのではなく、まあ、いいんじゃないのとおおらかな鷹揚さで、陽気な気分でいるのがいいですね。
こうしたメンタリーの向こうに神々の世界も連なっています。ええ、天人達は、シンプルに楽しい気分です。
肯定的で、明るく、前向きで、おおらかでありながら、鋭敏で巧みなのがいいと思いますね。
ちなみに仏教では、この様を「善」といっています。