日本人には潔癖性が多いと、時々いわれます。タイやミャンマーといった、同じアジアの方々から指摘される時があります。
で、残念ながら、こうした指摘は「当てはまるケースがあるな」と思う所があります。
強迫神経症といった病的なケースを除けば、潔癖性な日本人の数は、そんなに多くはないのかもしれません。目立ってしまっているだけなのかもしれません。
ですが、商品なんかもそうですが、ほとんど見えないキズがあっても「欠陥商品です、交換してください」とか^^;
あるいは包装や梱包がちょっと悪いだけでも「なんでこんな『雑な』梱包をする!」とクレームを付けたりするとか。
その逆で、アマゾンなどで中古本を購入すると、なかなか取り出せない位ビニール袋やテープで厳重に包装し、「ちょっと、ここまで過剰に包装しなくてもいいのでは?」と思うときもあったり。
全ての日本人が神経質であったり潔癖性ではありませんが、こうした傾向は時々見られるのは確かだと思います。
タイ人が指摘するのも「なるほど」、と思ったりもします。
ですが「潔癖性でいられる」「潔癖に生きてこられた」ということ自体、病的な場合を除けば、とてもラッキーといいますか、実は「大変恵まれている方に多いのかな」と思うときがあります。
常に新品で綺麗なモノに囲まれホコリ一つ無い生活しているとか。気質とは別に育った生活環境や今までの人生が大変恵まれているため、「自ずと完璧を求めてしまうようになったのでは?」と想像を巡らす時もあります。
「ま、これでいいや」というのでは満足ができず、「もっとよい生活」「もっとよりよく」という、よくいえば「向上心が強いのかな」とも。
ですがズバリ言ってしまいますと、「強いこだわり」が中核にあって、これが「完璧主義」に転じているメンタリティなんですね。
そうはいいましても、人はそれぞれです。いろんなタイプもいらっしゃいます。ですので、あんまりあれこれと言うのもなんですね^^;
ただ前から気になっていることがあって、こうした潔癖性といいますか、完全理想しか認めないような精神で、社会問題を取り扱っているのを時々みかけることがあります。
言っては悪いのですが、潔癖性や神経質なスタンスで社会問題に向き合うと、とても窮屈な感じがして、100%正しいか100%悪いかの両極端な印象を受けるときがあります。
「絶対的に正しくなければならない」
「間違ったことは絶対にあるべきではない」
というような精神を根底に据えているかのようでして、些細な不祥事や、ちょっと不具合を見ても、「あれはダメだ」「許せない」「ダメ」とか、ものすごく厳しく指摘します。
理屈の上では「その通り」となりますが、しかし、うーん、どうなのでしょうかね。こうした「良い悪いの線引き」も人によって違いますけどね。
端的にいいますと、「窮屈」と感じる潔癖性は率直にいってマズいと思います。何か肯定的にアクション・行動を取ることもできなくなります。
しかも極めて悲観的です。マイナス思考にもなっていきます。で、何もできなくなって自滅していくことも多くなるのではないかと。
これじゃあ本末転倒。
危うい印象も受けますね。
といいますか自虐的です。
そもそも社会問題を知ることは、賢く生きていくためだと思っています。しかし情報の精度をやたらと求めたり、少しでも怪しいのがあればダメとかすると、もう何もできなくなります。
食事に気をつけすぎて食べるものがものすごく制約されてしまい、それがストレスになって寿命を縮めることに似ています。
世の中の構造とか支配といった社会問題の世界でも同じだと思いますね。寿命を縮める代わりに、生きにくくなります。
なんだかこのテーマで書き始めたところ、潔癖性について、もうちょっと書いてみたくなりました。
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⇒「潔癖と清浄は似て非なるメンタリティ」