「若い時の苦労は買ってでもせよ」はしなくてよい【鈍感な人向けのことわざ】

「若い時の苦労は買ってでもせよ」は本当?

よく「若い時の苦労は買ってでもせよ」なんて言いますが、この言葉は怪しいですね。

疑問の余地のある格言です。
正確にいえば「必ずしも本当ではない」ということですね。

「苦労、苦悩は人を成長させる」といいますが、必ずしもそうとは限りません。苦労をしなくても人は人間的に成長できます。

苦労している人よりも、洞察力もあってバランス感覚があり、人間的に魅力のある人もいます。

結局、苦労しようがしまいが、恵まれていようが恵まれていまいが、環境に影響を受けて学ぶ人もいれば、環境から影響を受けずに学ばない人もいるということなんです。

で、結論をいってしまいますと、「若い時の苦労は買ってでもせよ」は鈍感な人向けのことわざなんですね。知性と感受性が粗く、大雑把な人向けの格言なんです。

苦労に耐えられるのは神経が図太い人

それと、苦労をすると、苦労に免疫性が出来るとか、苦労への耐性があるとかいうのも怪しいものです。

人によって違うかもしれませんが、苦労に耐えられるのは元々神経が図太い人が多くなります。

鈍い(鈍感)から耐えられるんですね。

亡くなったハマコーこと浜田幸一氏は、超ヘビー級の神経の太さ。世間からいくらどんなにバッシングされても「なんとも思わん」と言っていましたからね。

ハマコーは、世間からバッシングを受けても「こいつら、何言っているんだ」と、どこ吹く風。

笑っていたといいます。
全然、気にならなかったといいます。

すごいですね^^;
剛胆な腹を持った方だったようです。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」は、まさにハマコーのような鈍感で剛胆な性格の人に向けた言葉だったりします。

逆に感受性が強く、知性も優れている人には不向きな言葉だったりします。

神経の図太い人は苦労を苦労と思わない

世の中には、ハマコーのような鈍感で剛胆な人がいるんですね。

神経が大変太く、ちょっとやそっとのことでは動揺しない。平然としていられる。肝が据わっている人。

剛胆といっても、その実は「鈍感」なのでしょう。鈍感なので剛胆になってるのが本当の姿だったりします。

こういう人は、相手の気持ちを慮ることが苦手です。また普通の苦労じゃ全然堪えません。
そよ風のような感覚だったりします。

剛胆な人は苦労を苦労と思えません。

鈍感な人ほど成功する

なので、この手の人は才能や馬力、野心があれば、政治家とか起業家になります。

で、神経が太いため、周囲の状況や人の感情を無視しても、自分の信念を貫く道をまっしぐらに突き進むこともしやすかったりします。

ですので、成功もしやすかったりします。
成功者の条件に「信念の強さ」があります。
実はこういう理由もあったりもします。

これが繊細で感受性の強い方なら、そんな人の感情を逆撫でするだけで、ぺしゃんこになってしまいます。

「運鈍根」とは、まさにこうした鈍感型人間に向けた言葉だったりもします。

しかし運鈍根はデメリットもあるわけですね。

運鈍根は成功要因だが旧い上にデメリットもある

苦労は鈍感人間を矯正する荒治療法

しかし剛胆な人は、周囲から鼻つまみされるなど、厄介なタイプになることもあります。
問題児にもなりやすいタイプです。

で、こうした剛胆な人こそ、人の気持ちを察することのできる感受性を育む必要があるんですね。

苦労をしたほうがいいんです。
さしずめ、若いときに苦労をしたほうが、学びになるわけです。

ええ、まさに「若い時の苦労は買ってでもせよ」が該当する人なんです。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」は、こうした鈍感型人間を矯正するための荒治療法だったわけですね。

感受性のある人は苦労はしないほうがいい

で、普通の人は苦労などしないほうがいいんです。

神経の太い剛胆な人が例外なんです。こういう人は棍棒でぶっ叩く体育会系が合っているんですね。

一般的には「若い時の苦労は買ってでもせよ」なんていうことわざは、万人向けじゃないんですね。今にして思えば、なんと無責任な言葉なのかと思います^^;

この言葉は鈍感型人間に適した言葉なんです。
洞察知性が弱い。
人の気持ちを感じ取る感性が鈍い。
知性も感受性もともに粗く、鈍く、劣化している。

そんな人に向けた言葉が「若い時の苦労は買ってでもせよ」なんです。

こうした人以外にとって「若い時の苦労は買ってでもせよ」は、結局、苦労して悩んでいる人への慰めの言葉にしかならないんですね。

理不尽な苦労をした、その理由といいますか、正当性として、「若い時の苦労は買ってでもせよ」といって慰める。

しかし現実は、望まない苦労など嫌なものです。
希望の無い苦労など無益だけです。
しないほうがいいんです。

苦労をしなくても見識と洞察を高めることができる

ちなみにここで言っている苦労とは、「生みの苦しみ」といった苦労とは性質を異にします。

何かを生み出す、形にするための苦労なら「苦労は買ってでもせよ」と言えますね。

しかし、発展性も希望も答えを見つからない苦労。
こんなの無駄です。
しないほうがいい。

解決ができない、答えが見えない苦労などするもんじゃありません。
当事者にしてみれば、本当に苦しいだけです。悩みなどしなくても、洞察力は得られます。

悩んだ人が得た洞察や感性は普通の人でも得られます。通常の感性や鋭敏な感性を持った人なら、普通に生きていく中で、充分に成長できます。

自分を観察し、世界、世の中を知り、見聞し、また読書したり、考察する中で、見識を深め、洞察を高めていくことができます。充分にできます。

苦労が人をダメにしてしまう

あとむしろ苦労することで、いじけて、ひねくれて、根性が曲がる人もいます。
学びにすらならないこともあります。

スポイルの材料に過ぎなくなるわけなんですね。
苦労が人をダメにしてしまうケースです。
で、意外とこれが多い。

普通に感性のある人や、感受性の強い人にとっては、「若い時の苦労は買ってでもせよ」は無くても大丈夫です。

この言葉は、苦労に遭遇し、悩んでいるときへのなぐさめ的な格言です。苦労して根性がひん曲がらないためのやさしい措置とも言えます。

普通の人や鋭敏な感性を持った人は、苦労などするもんじゃありません。

嫌なものは嫌です。

苦労などしなくても、人間は真っ当になれますし、苦労していない時期であっても、深く学ぶことができるものです。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」は鈍感な人向け

苦労が人を成長させるのは、先述の通りです。
神経の太い人、剛胆な人、鈍感な人に適した荒治療法なんですね。

こうした人は、苦労に直面することで、否おうがなく様々なことを体験し学ぶわけなんです。それくらい荒っぽいやり方でなければ、人間としての感受性や知性が育たないわけなんです。

神経が太かったりすると、相手の気持ちを察することの不得手な鈍感なので、叩かれて、苦労して、ようやく学ぶというものです^^;

鈍感で苦労知らずの人間は、他人の感情に無礼な人になることがあります。こういう人は、目一杯苦労して、傷付いて、その経験から学ぶのがおすすめです。スパルタ式で、体で教え込むやり方ですね^^;

暴力や体罰を受けるのがそれほど苦にならず、教育指導と感じられる人は、大いに苦労したほうがいいでしょう。

といいますか、苦労しませんと、ヤバいでしょ^^;普通人の感受性を育みませんと、必ずトラブルメーカーなどになりますから。

今では、体育会系的な指導は問題になっています。やっぱり体罰などを使った教育的指導はよろしくありません。

けれども、人によっては、厳しい指導をすることで、ようやく感受性を育み、洞察や理解が得られることもあるってことです。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」は、こうしたタイプに向けた言葉ですね。

細やかな感受性と知性が無いと不幸になる

結局、「若い時の苦労は買ってでもせよ」なんてゆうのは、感性と知性が粗雑で劣化していて、人の気持ちもわからない鈍感クンとか、洞察があまりにも乏しい人向けの低次元な教えなんです。

「天界へ生まれ変わると、死後、地獄へ墜ちる」なんていう教えがあります。これなんかは、まさに感性と知性が粗雑で劣化ている天人のことなんです。

豊かで細やかな感受性、深い洞察がある人や天人は、ムダに苦労などしなくていいんです。

そんな余計なことはしないで、人生ちょーハッピーで、あらゆるものに恵まれて、しあわせのど真ん中で生きていくのでいいんですよ。

で、そういう幸福の絶頂にあっても、道を違えることはしませんって。天界に生き続けて、極上の幸福感にあっても、感性、感受性、知性が鈍感でなければ大丈夫なんです。

感性、感受性、知性が鈍感なのは、要は「自覚が無い」ということになるんです。

自覚が無いから、慚愧も起きない。
反省もしない。

幸運の風に乗り続けて、好き勝手なことをしまくり、やりたい放題になってしまう。

つまり、感性、感受性、知性が弱いと、愚かな生き方をしてしまうということなんですね。

天界にいる神々や天人達が悪業をおかしてしまうのは、まさにここにあるんです。要は、感性、感受性、知性の問題なんです。

まとめ

「若い時の苦労は買ってでもせよ」なんていう言葉を真に受けて、万人がマゾちっくな生き方などしなくてもいいんですね。

自虐的なことがお好きなら、大いに苦労の中に飛び込むのもいいかもしれません。

が、言葉や教えというものは、それが当てはまる人なのか、その条件を満たしているのかを考慮することはとても大切なことです。

十把人からげに、誰にでも適用させると、問題を引き起こします。こうした分別、判断は、とても大事なことですね。

で、「若い時の苦労は買ってでもせよ」という格言は、
・神経の太い人
・剛胆な人
・鈍感な人
・人の気持ちを察することが不得手な人
・しあわせ過ぎて感受性も知性も鈍くなってしまった人
に向けた言葉ですね。

そもそも人生は、不条理な苦労、無益な苦労であっても、自分の過去生の償いであることが多いものです。

で、過去生の報いを受けているとしても、「いずれこの苦労は消える」と達観するのが一番おすすめです。

しかし、苦しいものは苦しいものです。
嫌なものは嫌なものです。

できるだけ無益な苦労はしないほうがいいんですね。そうして、細やかな感受性と知性を育むことが大切です。こうした感性と知性があればまったく心配ありませんし、生命として、魂として成長していくことができるようになります。

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