江戸時代にうたわれた究極の人生の戯れ歌
江戸時代に作られた歌に、人生の究極の理想を歌ったものがあります。戯れ歌です。
理想といいますか、人間の尽きない欲を皮肉った歌なんじゃないかと思いますが。
「こうであったら、幸せだぶぁい」という、皮肉った有名な歌です。一度は、どこかで聞いたことがあるんじゃないかと思います。
幸せは
弥生三月
花の頃
おまえ十九で
わしゃ二十歳
死なぬ子三人
親孝行
使って減らぬ
金百両
死んでも
命があるように
なんとまあ^^;
まー、「言うこと無し」人生ですね。
「これなら幸福間違いなし」ってところです。
しかし、言葉の語呂がいいですね。
このリズムと調子。
ラップです。
ラップ。
現在の日本語ラップの源流やスピリットは、古(いにしえ)の日本の歌にありますね。
江戸時代の戯れ歌の意味
で、上記の江戸時代に詠われたという戯れ歌の意味は、説明するまでもありませんけどね。
季節は、いつも春の三月のようで陽気で、過ごしやすく、ジメジメした梅雨もなければ、炎天下の夏もない。
豪雪や寒冷に悩む冬もない。いつも、のほほん、陽気暮らし。
で、女房は19才の美人でナイスな気の利いたギャル。言うことありませんなー。
で、わしゃ20才のイケメン。病気知らずで、いつも元気でワンダホー。
息子は3人はも、これまた健康闊達、しかも親孝行ときたもんだ。勉強もよーできて、将来有望&安泰。
で、いくら使っても減らない天文学的な資産もごっそりあるで。毎月の利子だけで、生活できまっせ。金に困ること一切無し。
さらに、わしゃ死ぬこともない。不死の秘薬も持参しておるで。
ざっと、こんな感じでしょう^^;
絵に描いたような幸せな人生
で、こうした願いは、江戸時代に限らずいつの時代も同じです。「絵に描いたような人生」。
いいじゃありませんか(^o^)
人生の理想ですね。
小林よしのり「おぼっちゃまくん」なんか、ある程度、当てはまっていうかもしれません。
いわゆる幸福な人生とは?
いわゆる「幸福な人生」とは、畢竟、この戯れ歌の通りです。
- 両親・・・よき両親。金持ちならなおよろし。
- 住居・・・過ごしやすく快適な住まい。豪邸ならなおよろし。
- 容姿・・・イケメン・美女な容姿端麗で、いつまでも若々しく、元気。
- 結婚・・・気立てがよく才知抜群の、これまた容姿端麗な恵まれた配偶者。
- 子ども・・・優秀で、将来有望な子どもがたくさん。
- お金・・・使い切れない資産と、経済的に困窮することが無い。
- 仕事・・・好きな仕事ができて、充実感にあふれ、地位名誉、名声も得られる。
- 健康・・・病気もなく、長生き。
- 友人・・・よき友人と人間関係に恵まる。
これらが満たされると「ああ、幸せだなあ」と感じるものですね。
せとは程度の差こそあれ、自分を含めて環境が快適であることになりますね。
五感を通して「気持ちよい」と感じることが「幸せ」感になっていきます。
で、これだけそろっていれば人生万々歳ですね。快適人生そのものです。
で、人間はこれらを目指しています。古の時代から、これらを目指しています。
程度の違いはありますが、人はこれらを実現するために、「生きている」といっても過言ではないかもしれません。
で、こうしたことは、ふつーの感じで目指したり、実現できるようにすることは、良いことだと思います。
仏教では涅槃という究極のしあわせを目指す
ところが仏教なんかになると「こういうのはよくない」なんて言います。確かに欲や快適さを目指すのは「よくない」とか、経典に書いてあるんですね。
ですが、こういう受け止め方は表層的過ぎなんです。文言をストレートに解釈し過ぎです。
仏典には、いくつか誤謬(ごびゅう)などがあります。表現方法が不適切という、致命的な欠陥もあります。
ですので、仏典を読む場合、注意が必要だったりします。
そもそも仏教は、涅槃(ねはん)といった、非二元を目指します。
で、この立場からみれば、五感を通して得られる快適さは、永遠ではないし、いつか無くなってしまう、はかないものに過ぎないことがわかります。
仏教の理解は誤解されやすい
ですので、「そういう不安定な快適さに、あんまり心惹かれなさるな」、という意味合いで、一般的な欲や快適さを否定しているんですね。
決して一般的な欲や快適さが悪いわけじゃないんです。涅槃という立場から見た場合の「所見」というのがあります。
あと、欲や快適さにハマってしまい、「もう絶対に手放したくない」といった強いこだわりが生じるのが、よくないんですね。これは不幸につらなる道ですので。
あるいは逆に「これを絶対に、何がなんでも命を削ってでも成し遂げるのじゃああぁ!」と、年がら年中、ハイテンションで気合いを入れまくるのも、「そりゃアンタ、やり過ぎでっしょ、執念深すぎますな」として、「よろしくない」とされるわけです。
ふつーにしていればいいんですね。
ふつーの感覚で、人生が満たされているという自然体がいいんです。
原始仏典では世間的にも幸福を推奨
人生は、上記の項目を、ふつーな感じで、目指すといいますか、実現できたほうがいいんです。
生きているなら、快適であったほうがいい。快適さが、一般的な「幸福感」の本質です。
ちなみに、これら世間一般での「幸福」を実現する方法も、原始仏典には、しっかりと書いてあります。ブッダが説く「成功法則」があるんです。
「え?、仏教は、欲や快適さを否定しているんじゃないんですか?」と、思っている方は、びっくりされるかもしれません。
いえいえ、違うんですね。仏教では、決して欲や快適さを否定していなんです。
むしろ、世間的にも幸福になることも勧めているんです。かといって、欲のおもむくままに、ということでもないんです。
この辺りのニュアンスや、勘所をつかむ必要もあるのですが、要は、ふつーの感覚で行うというのが、ポイントなんですね。
で、いたずらに苦難の多い人生は、避けたほうがいいでしょう。何も苦労しなくたって、知性とハートがあれば、人は学ぶことができます。
仏教の誤解で幸福を否定してしまう
ところが、それでも幸福を放棄することに惹かれる方々がいらっしゃいます。
清廉潔白で、素晴らしい志なのですが、残念ながら、その多くは、屈折した心、抑圧意識の裏返しであることが多かったりします。
ここに気づかずに、あたかも自分は素晴らしいことをしていると思い込むと、さあ、大変です。
仏教などを誤読誤解した否定的観念やイデオロギーを、さらに正当化させ、その否定的で屈折したマインドを強化してしまいます。
これは仏教などの怖いところです。教えの誤解や経典の誤読が、不自然な人間を誕生させます。
多くの方が「仏教は欲を否定している」と思っています。
これをいいことに、水戸黄門の印篭の如くかざして、自然な欲までをも抑圧させ、否定的メンタリティになることに、お墨付きを与えてしまっています。
これらは、残念なことに勘違いです。過去数千年間、錯誤され続けてきた誤解の一つです。これが怖いのは、不幸を招来する恐れがあることです。
いたずらに欲や快適さを否定する宗教的観念やイデオロギーは誤解であり、経典の誤読の産物なんですね。
人は、基本的に、自然な感じで、幸福、幸福感を追求したほうがいいんです。それが、自然な感覚であり、感性です。
人間はしあわせが好きであり幸せになりたい
しかしながら、人間が抱く願望は、いつの時代でも全く同じですね。江戸時代に詠まれた歌に限りません。
人は「しあわせ」になることが好きなんです。で、これを目指すんですね。
いつの時代でも「究極の願い」として、上記の項目は挙げられます。永遠不滅の人間の願望といっていいでしょう。実際、上記の項目が満たされていれば、言うことありませんしね。
こうした「理想」が実現化していくことは、よいことだと思います。人類の全てが、これを実現できたなら、地上天国になりますね。
満たされた幸福な天界・天上界
ちなみに上記の項目が満たされた世界が、いわゆる「天界」「天上界」といわれる、異次元の世界です。
天界は実在しています。ただ、ふつー見えないだけですが。
ですが、感じることはできると思います。天界では、人間界の何十倍、何千倍、何万倍という快適さ、快感、心地よさが、基本的なメンタリティになるといいます。
こうした「快適さ」「気持ちよさ」を、人間界でも実現しようと試みるのでしょうね。
人間界でも、天界と同じような世界になるように目指すのは、結構なことであり、よいことだと思います。
しかしながら、実現するにあたって、おかしなことはやらずに、プロセスを大事にする、真っ当なかたちで進化していって欲しいものですね。