二元世界における善悪の判断は必要
日常の生活においては「善悪の判断」は必要です。
悟りのアプローチでは、思考や感情に巻き込まれず、一体化することなく、振り回されることなく、我を忘れることが無いように、純粋意識・大いなる存在に溶け込む有り様が大切になります。
しかしながら、二元世界である日常生活を過ごす場合は「善悪の判断」は必要です。
といいますか、これがありませんと、問題児になります。他の方々と調和していきていくためには、「善悪の判断」が必要です。
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外道はブッダが否定した問題を招く有り様
時々、ここを履き違えてしまう指導者もいます。真理のまま現実世界に適用しようとして、トラブルを引き起こすことも出ています。
非二元(ノンデュアリティ)は、その代表格でしょう。
しかし、真理は真理です。
生きているこの世界は、この世界のルールに従うこと。これは大切。
このことはブッダも言われていたことです。
ブッダは、この現実世界のルールや道徳を無視する真理との関わりを「外道(げどう)」といって、厳しく非難しています。
当時は、六師外道という真理を説く人もいましたが、彼らは全員、この世界に不和や問題を引き起こし、中には、道徳を否定して社会を攪乱する危険思想すら説く者もいたくらいです。
で、ブッダは、社会を悪化させる真理を説く者は「外道」といって、大変厳しく諫めているわけです。
二元世界での「善悪」とは?
あとスピ系に多い誤解は、そもそも「善悪とは何?」という定義が曖昧な点です。これはいただけません。
善と悪とは何か?
そもそも善悪とは何でしょうか?
結論を先にいえば
・善とは心が清らかなこと
・悪とは心が汚れていること(煩悩に汚染されていること)
になります。
これは仏教的な善悪論ですが、仏教に限らず、善悪の本質は、心が綺麗か否かになります。
もっとも優れた善悪の判断とは?
ちなみに、最上の善があります。
それは「いまここ」から生じる感覚の善です。
悟りのアプローチでは、ジャッジをしないで進めていきますが、純粋意識・大いなる存在においては「善」の状態です。
最上の心の清らかさが実現されています。
この状態でジャッジするならば、最上の「善悪の判断」ができます。こうしたことも実際は可能です。
心が汚れる「善悪の判断」
しかしながら「心が汚れる善悪の判断」があるわけなんですね。
これは平たくいいますと、「善と悪との判断をして、裁く、攻撃する」という類です。
善悪と判断して、感情を引き起こし、心を汚してしまう。批難しすぎたり、攻撃したり、責めてたりしてしまう。
これが「心を汚す」有り様です。
つまり、マインドと一体化し、巻き込まれ、振り回されている状態です。
こうした有り様の「善悪の判断」こそ「悪い」となりますね。
世間の価値観による「善悪」
あと、「世間の価値判断や物差し」で「善悪を決めてしまう」のも「悪い」となります。
「悪い」といっても、それは「悟りのアプローチ」に照らした場合の見解です。社会生活を送る上では「世間の価値判断や物差し」は欠かせません。
要するには、「世間の価値判断や物差し」で判断して、悪感情を抱いたり、振り回されるのはよくないですよ、という意味ですね。
そもそも世間的な価値判断は、便宜上のものです。時代によっても違ってきます。
普遍性の無い尺度で、価値判断しても、本質的には有益ではないということにもありますね。
あくまでもその時代なり社会なりの判断ということです。
善悪を巡る一般的な4つのポイント
このように一般的な生活における「善悪」に関しては、4つのポイントがあるということですね。
- 心が清らかであることが「善」、汚れていることが「悪」
- もっとも優れた善は純粋意識・大いなる存在である「いまここ」
- 「善悪の判断」でネガティブな感情が引き起こされる
- 時代や社会での価値観や常識で「善悪」を決めてしまう
この4つ。
これらがポイントになります。
思考が止まる禅定(サマーディ)
あと、色界禅定など、高い次元の精神世界に入ると、思考そのものが停止します。
この高次な世界から見ると、「善悪の判断はしない」状態になります。
この禅定(サマーディ)もまた、悟りへ至るための重要なエッセンスでもあったりもします。
悟りのプロセスにおいては、一切合切のジャッジをしないというのがあります。マインドに振り回されない、マインドを超越するというものですね。
しかし、これを文字通りにすると、大失敗します。ある領域といいますか、至福を生み出す「それ」にくつろぐことをベースにして、一切のジャッジをしないといった有り様です。
しかし、これは、ある種のシフト体験をしないとわからないことかもしれません。
善悪の判断は欠かせない
二元世界、つまり普段の生活における「善悪判断」は欠かせません。これがありませんと、この世界は大混乱し、犯罪が多くなります。
ブッダは、二元世界での善悪判断や道徳までをも無視し、スルーする真理の有り様を「外道(げどう)」といって、手厳しく非難したくらいです。
通俗的なスピリチュアルでは、善悪の判断、道徳、価値観、社会ルールすら、文脈を考慮することなく、十把一絡げに否定することを言う指導者もいますが、それは大きな間違いであり、罪になりますので、くれぐれもご注意ください。