皇室・皇族のような気品のある立ち居振る舞いを身につける

皇室や皇族をお手本にしている品位ある女性の話し

昨日、知り合いの年輩の方と話しをしていたときのこと。その方、女性なのですが、皇室や皇族をお手本にしていると。

何をお手本にしているかといえば、「気品のある立ち居振る舞いや言葉使い」であると。

どうりでこの方、言動に気品が感じられるのかと。
初めて「なーるほど」と合点がいったものです。
ただご本人は、「自分の中身はダメでも、
皇族の方々のような気品は身に付けたい」
と、いいます。

大したものだなあ、と感心しました。

自覚のある善意は偽善では無い

こういう話しを聞くと、中には、

「そんなの偽善じゃん」
「取って付けたメッキじゃないの?」
「外見だけ綺麗に見せるようでなんかあざとい」

とか言い出す人も出てきます。

ちょっと意地悪な見方といいますか、
斜に構えた見方ですね^^;

が、こういう物の見方は、ちょっと違います。
善意や、自分を高めるという良質な意志に支えられたことは、原則的に良いことになります。

まして、この方のように、ご自分の内面性を知っている人は「自覚」があります。

自分のことを分かっていながらも、
少しでも気品のある人間になりたい、
そんな自覚に根ざした努力や向上心は、
そのまま素直に評価できることですね。

素晴らしいことです。

自分が至らないことへの自覚のありながらも善意な行いは、決して偽善では無いんです。

自覚の無い善意もどきは悪意な場合もある

これが、腹黒い本性を隠すために外見を装うとか、
悪意をしたためた下心を持っているとか、
そういう悪心がある場合こそ、
「偽善」「メッキ」「あざとい」となります。

あるいは、悪意や欲得だけから行っているにもかかわらず、その自覚が無い場合ですね。
自分の本心に気づかず、形だけは善意の行為をしている場合は、それは偽善になるでしょう。

こうした行為は、批難されるものです。

動機が善意・悪意か智慧・無知か

動機が善意なのか、悪意なのか。
智慧があるのか、無智なのか。

物事の善悪や良否を見極めるポイントは、
ここにありますね。

ここから外れているものは、批難もされやくなるのでしょう。悪意や無知、無自覚の行為は、とかく後ろ指をさされがちです。

「学ぶ」とは「真似る」~まず真似ることから

それにしても、皇室や皇族を、「気品を学ぶためのお手本」として受け止めている方がいらっしゃるのだなあ、と思ったものでした。

なるほど。
皇族は、外見上の礼節の必要性からの「しつけ」なのかもしれませんが、立ち居振る舞いは見事です。
物事は、まず「形から」とも思っています。
柔道、空手、相撲、伝統芸能、
ほとんどがまず「形」から入りますね。

「学ぶ」とは「真似ぶ」なんて言い方もされるときがあります。これは本当にその通りだと思いますね。まずは「真似しんぼ」からスタートでしょう。勉強もそうですね。

まず先人達が記したテキストを読み、学ぶ。
仏典などもそうです。

まずは素直に読む。
そして暗記し、吸収する。
で、理解を深め、「ここはこういう意味なのか」と掘りさげていきます。

仏教の戒律も真似る「型」の意味もある

仏典と関連して仏教ですが、仏教には「戒律」というのがあります。
これは「べからず集」として受け止められがちですが、実は違ったりします。

「戒律」は重層的な意味合いがありますが、最初は「型」の意味があるんですね。

人間が、神々のようにレベルの高い生命体になれるお手本・型、それが「戒律」として整理されているものだったりします。

ですので戒律を、積極的、肯定的意味合いで受け止めると、抑圧感が無くなります。戒律も「真似る」という「お手本集」だったりします。

もっとも「戒律」は、精神の深まりの「結果」でもあったりもします。宇宙的な性質の意識、徳の意識に深まり、融合していくに従って、人は、自ずと「戒律」的になっていく性質があります。

「戒律」とは、宇宙や徳の意識に深まっていった生命の理想的な姿を、教条的に列挙したものとも言えます。

瞑想も真似ることから始める

で、こうした「真似る」ことは、立ち居振る舞いや、勉強に限らず、あらゆることに該当すると思います。
実は、瞑想の仕方もそうなります。
まずは、「真似る」ことから始めます。
真似るというか、やり方を教わることからですね。

そうして、日々、修練を続け、重ねていくことで、次第に、自然にできるようになり、自分らしくもできるようになります。自分らしいスタイルになっていくと。

最初から、我流では、よろしくないことが多いですね。やがて「いまここ」といった、瞬間の「安らぎ」を、日常生活の中にも体験することが出てききます。

心が落ち着き整うことに、甘美な味わいがあることを体験していきます。

これが、日常的にも出てきます。日常的に、至福と安穏、大いなる存在とともにある実感。

「いまここ」系の瞑想で品性・品位もそなわる

瞑想の仕方にもいろいろとありますが、「いまここ」系はおすすめですね。

肩肘をはってガンバルというものではなく、自然体を通しての瞑想になります。「自然瞑想法」といっていいかもしれませんね。
「いまここ」系を真っ当にやっていきますと、おそらく、品位ある人間になるのではないかと思います。

皇室・皇族のような品性、品位は、誰でお身につけることができると思います。

で、そうした品性、品位は、実に、美しいハーモニーのような戦慄を、音なく音で奏でていたりもします。

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