現代教育の致命的な問題点
現代教育には致命的な問題点があると常々思っています。不登校とか、勉強ができないとか、そういった問題以前に、根源的に大問題を抱えていると思っています。
それは「比較する」ということです。
現代教育では、子どもは12年間、「比較する」という洗脳下におかれます。
この「比較する」というい教育を通した洗脳のため、2つの致命的な大問題を引き起こします。
それは
1.自分の才能資質に自信を持てなくなる(自分はダメだと思う)
2.優秀な資質を持ったモノが優位に立つ
ということです。
要するに、「比較させる」「比較する」ということですね。
比較する教育は力のある者や企業を正しいとしまいがち
しかし、「1」と「2」を、当たり前と思っている人も多いかもしれません。といいますか、「1・2がおかしい」とみなすこと自体に疑問を抱く人は少ないかもしれません。
けれども、「1」「2」は誤りです。
これこそ、弱肉強食の資本主義社会を助長してしまいかねません。見方を変えると、思想教育とも言えます。
比較する教育は、力のある者や企業を正しいとしまいがちです。
資本主義は良いといった見方がありますが、これは必ずしも正しくありません。かといって、共産主義が良いというわけではありません。
悪い意味での資本主義を促すエゴイズムが悪いわけですね。で、これを助長するものが「比較」に根ざしたパワー主義です。
力のある者、資本力のある者が征するという考え方ですね。これが間違いです。
「優れたものが良い」とする考え偏重している現代教育
比較する教育の中にいますと、自分の資質才能に自信が持てなくなる、突出した才能、優秀な才能を認めにくくなる弊害があります。で、こうした教育システムは問題です。
そもそも「比較」する教育は、競争心や攻撃心を刺激して、優秀な才能なり資質を持った人を伸ばすには役立ちます。
が、その教育システムの中では評価されない才能・資質を持った人や、才能資質が劣った人を踏み台にし、コンプレックスを与えてしまいます。
つまり、教育の中で、しかも子どもの時代に「弱肉強食」と「比較」の思想を植え付けてしまうわけですね。
で、子どもが成長して社会に出ると、教育で培った思想の延長で、資本力のある企業が「正しい」「優れている」する考えにつながっていきます。
「優れたものが良い」とする考えに偏重していることが問題です。また「優れたもの」だけが是認される教育システムが問題です。
「共生」が大切
大切な視点は「共生」です。
また、個々においては、それぞれ優れた才能なり資質があります。それらを尊重するのが、当たり前ですが大切です。
現代教育には、「共生」の視点が根本的に抜け落ちています。競い合う、闘う、攻撃するというのが前提にあるから、共生の感性は供え物であるかのように二次的になっているわけですね。
昔は、丁稚奉公や親の稼業を受け継ぎ、自分の資質才能を伸ばし磨くことをしていました。
こうしたシシテムが、本人の自由を奪っているといったマイナス点があるにしても、才能を伸ばし磨くことによって、その人が評価されるというメリットはあります。
才能や資質は、優れていることに越したことはありません。しかし、人それぞれ、才能や資質をもっています。
その資質や才能を活かせる環境、また活かしてお役に立てる環境というのが実は重要です。
そしてこれが「共生」です。優れたものこそ素晴らしいとする偏りすぎた考え方を修正し、誰もが活かされていくシステムです。
完璧を求めるのではなく、成長を促しながら共生していくシステムです。
もちろん才能が優れていることは素晴らしいことです。しかし、もっと重要なことは、誰もが持っている才能を活かせる環境ですね。
ポイントは、どんな才能でも活かせる、
その才能を使っていただける環境であるということです。
所属している集団やコロニーで役に立つことが大切
仮に、それほど優れていない才能であっても、ある集団の中においては、その才能が輝くことがあります。
分かりやすい例をあげるなら、お菓子を作る才能です。
そのお菓子を食べてくれる、よろこんでいただける人がいて、支えていただけるなら、それで幸せです。世の中には、もっと素晴らしくお菓子を作る人がいたとしても、その方を必要とする人達がいる。
こうした集団を促し育成していく社会システム。唯一絶対的で資本力のある所が征するのではなく、コロニーのように各地に点在するシステムです。
まるで細胞のようです。自己主張することもなく、全体とそて調和が取れる世界です。それぞれの細胞・コロニーで、それぞれが活躍する。
こういうことです。
しかしこれを実現するには、インフラの整備も必要です。特にエネルギー問題。
自分にとって役立つかどうかという視点
現代社会では、「より優れたもの」「より安いもの」といった評価で判断します。
「自分にとって役立つかどうか」という視点が弱くなっています。
自分にとって役立つといったゆるい評価システムであるなら、資本主義のようなパワー主義は必要なくなります。
もっと人間的でやさしく、共生的な生き方です。
資本力だけでグイグと押してしまったり、従業員を不当にアル買う悪徳企業などは生まれる余地が少なくなります。
現代教育には「共生」の視点が必要
現代教育は、力のある者や企業を「正しい」としがちな意識が根底にあります。といいますか、現代教育のスタートが、こういう趣旨でした。社会で有用な人材を育成する、それが現代教育のスタートでした。しかも軍隊式です。
そのために、子ども達を競わせ、闘わせて、攻撃心を刺激して、才能や資のある子どもは、そうではない子を踏み台にして伸びてゆく、優越感と劣等感を育む教育です。
こうしたやり方は、それなりに効果はあるにせよ、複雑で多岐にわたり、個性も多様化している現代には、もはやそぐわなくなってきています。
今までの教育は、いわば「グローバリズム教育」とも言えます。
しかしながら、今や、各人の才能や資質を伸ばすという視点が重要ですね。競わせて、優越感と劣等感を培うやり方は、見直す必要があるでしょう。
一定の評価システムの中において、特定の才能や資質の成績を計り、優劣を付ける教育システムは、もはや前時代的であり、時代錯誤と言ってもいいでしょう。
そうではなく、「ある特定の集団なりグループ、組織」において、役立つ才能や資質を見いだし、育むやり方の導入も必要でしょう。
「どこにでも役立つ才能」もさることながら、「ある特定の集団で役立つ才能」に、もっとフォーカスして、評価するようにしたほうがいいでしょう。
しかし、これの実現は、現代の「マス教育」では不可能かもしれません。基本は、従来の「マス教育」としても、「特定の集団で活かせる才能」の評価も合わせて行っていくことができるといいですね。
で、これこそ「共生の教育」です。
万能感や欠点を改善して、総合的に優れた才能を評価するというのは、これをやりたい人がいれば、その人がやればいいんです。しかしこうした教育を根幹に置いてはならんでしょう。
現代教育に、共生の視点を設ける必要がありますね。人生観もそうです。
それぞれが活かせる、輝く社会システムの構築は可能だと思っています。