肩書きは意味ない
肩書きには意味はありませんね。
これが真実です。
以前、話題になったのがのショーンK。
偽りの経歴を飾り立てて、長年テレビ等で活躍し、なおかつ専門書まで出版していたといいます。
しかも大和証券の専属コンサルタントであり、さらには大企業や省庁でも講演していたといいます。
経歴詐称していたとはいえ、大したもんだと・・・。
肩書きがあっても国を貶める人
しかしショーンKとは逆に経済財政諮問会議に名を連ね、国の政策を推進し、TPPをプッシュしている民間議員もいます。
真っ当な経歴がありながら、国をないがしろにする政策を出し続けている。
で、こちらは咎められないと。
ウソを言って成り上がる者。
成り上がったけれどもウソを言い続ける者。
それにしても、ショーンK事件を見ていると、肩書き、学歴、経歴へのとらわれてと、反対にこうした肩書きに幻惑されてしまうのが、いかに多いのかということを、改めて思います。
精神世界にも肩書きに幻想している人は多い
この手の「肩書き」などに幻惑されてしまうのは、宗教などの精神世界にも多かったりします。
意外や意外、精神世界や伝統の世界では、とかく「肩書き」「学歴」「経歴」という勲章が、水戸黄門の印篭の如く力を発揮することが多いものです。
仏教書になれば「東大卒」とあれば、もうそれだけで注目されたりもします。
もうこの装身具だけで、読者は「著者はすごい人だ」と先入観を抱く。
頭が一応、良いので、それなりの表現力があるわけなのですが、その表現力の巧さで、読者は魅了されてしまう。
表現力の巧さも大切です。
評価はできます。
が、精神世界の深みとは、直接関係無いことも少なくありません。そんな事例は、数多くあります。
精神世界では肩書きは信用できない
精神世界では「高学歴なものほどアテにならない」とう法則もあります。断言するのは行き過ぎですが、おおむねその傾向があります。
知的過ぎる人は、知識や概念、観念への欲求が強過ぎて、何事も知識や観念などでくくってしまいがちです。
抽象的な表現や、いわゆる「思想」を好みます。この頭脳活動こそが高次であるとか高尚であると思い込みやすかったりします。
しかしこれは、概念なり観念という思考のエネルギーへの「とらわれ」であって、物質的エネルギーに執着する物欲の強い人と本質は同じだったりします。
だから知的過ぎるものは、響かないのが多い。
いや理屈としてのアタマには響くのですが、深い部分には響かない。どこか薄く、深みに欠けている。
精神世界では理性よりも高次元さが大切
理知的な人は勉強熱心な人が多く、頭脳の働きが優秀になっている方も多いものです。
これはこれで素晴らしいのですが、ただ、この素晴らしさ、その優秀さは、精神世界の優秀さとは違うということです。
理知的が過ぎてしまい、理知的なものに拘束され過ぎている。だから本当に大切な、その上位の次元が開けていない人が案外多い。
「この世」で成功する要因の一つは「理知的」と称される頭脳の良さです。その上の次元に開けていなくても、成功できますし、賞賛は得られます。
だから本などは、出しやすかったりします。
それで著名になる。
くどいようですが、これはこれで素晴らしいものです。大切です。
しかし精神世界では、上位の次元に開かれていることが大切です。で、この上位の次元という意味ですら、理知的過ぎる人には意味不明になります。だから「哲学」をやり始める。
高次に開けている人には不遇な人も少なくない
ところが、高次に開けている人の中には、不遇だったり、差別されてきたり、風変わりだったり、いろんな意味で「まとも」では無い人のほうが、意外といたりします。
で、言っていることが、これまた正鵠を射ていたりします。
そんな生涯を過ごしてきた人のほうが、深かったり、真実味があったりします。
さらにいえば、その風変わりさを経て、「まとも」になった人のほうが、より深かったりします。
必ずしもそうとは限りませんし、真っ当な人生を過ごしている人や、それこそ理知的な人の中にも、高次元に開かれている人もいます。
けれども、わりと、こういう傾向があります。
肩書き・学歴・経歴に惑わされない真贋を見抜く感性を養う
正しく選ぶことの大切さ。
真贋を見抜く眼を養うことの大切さ。
そのためには肩書きとか学歴とか、そういうものに惑わされず、「自分がいい」と感じるものを、ひたすら追い求めていくことが大切だと思いますね。
誰かが「いい」と言ったから、
みんなが「いい」と言っているから、
世間が「いい」と言っているから。
そんな物差しなどアテにしない^^;
てか、そんな人様の意見だけで判断しているようでは、おぼつかないかもしれません。
自分が「いい」と思うかどうか。
その判断力なりを磨き続けてゆく。
シャープにしてゆく。
やっぱり、こうした姿勢が大切だと思いますね。