カルマ。
業のことをいいますね。
わたくしは、そもそもこうした世界と関わるきっかけが「カルマ、輪廻転生、前世の業」という思想だったものです。このジャンルには、いろいろな意味で精通していると思います。ええ、いろんな意味で。
今日は、ちょっとこの辺りへの関わり方とか、注意点について書いてみましょうかね。
カルマが怖いと思うのはおかしい
そもそも「カルマ(業)」といえば、カルマをおそれている方が意外といらっしゃるようです。いや、多い。
ま、これもわからんことはありません。私も最初は「おそろしい」と思いましたし。
けれども、しばらくすると、そういうネガティブな受け止め方はオカシイことに気付きます。一面的過ぎるからです。
そもそもカルマは業報です。悪い業報だけでなく、良い業報もある。が、何故か悪い業報にフォーカスされがち。
これはもう受け手や発信する側のメンタリティの問題なことに気づくわけですね。
結局、性格がネガティブであると、カルマの悪い業報ばかりに気を取られてしまうわけです。で、そんなネガティブな状態の人は、「カルマは怖い」といった面を強調して本にもする。宗教を作る危険な者もいるくらい。
カルマ(業)をネガティブに受け止めるのは愚かなこと
何であっても、ネガティブにフォーカスすることは、一種の神経症をうながしかねません。カルマに関しては、幽霊と同じで普通は確認できません。
いわば「思い込み」で心配や不安にしてしまっているようなものです。こんな調子で関わっていると、心身を病んで病気になるでしょう。
で、カルマに付随する、こうしたネガティブな心の構造があることに気づくわけです。
輪廻転生もそうです。そんなネガティブだけにフォーカスしたものは「おかしい」と思うわけです。愚かしいんですね。
カルマにしろ、輪廻転生にしろ、何か高尚なテーマを扱っているにみえて、その実は不安心理を助長したり、ネガティブな状態にしてしまっているのが結構多い。
そもそも、そのような心理になること自体が「愚か」なわけです。
要は「心」がどうなっているのかということ。暗く、ネガティブになっていくこと自体が「悪」であり「罪」であり「愚か」であることに気づかないとならないんですね。
結論を先に書けば、こういうことです。で、後は、これらのことを詳しく書いてまいります。
カルマ(業)の本来の意味は「行為」
そもそも「カルマ」本来の意味は「行為」です。ええ。「行為」なんですね。
結果を伴う行為のことをカルマといっていたわけです。これホント。もともとは「行為」の意味です。
しかし近代では、カルマといえば、前世から影響を及ぼし続ける、運命的な不気味な支配パワーとかに受け止められています。(ここでは近代で使われている「カルマ」の意味を使います)
カルマ・輪廻転生をネガティブに受け止めるのは恐怖
カルマは確かに怖い側面があります。また、その怖さが悪事への抑止となっているのも事実です。
しかしカルマをいたずらに恐がったりするのは先述の通りで「ちょっとどうなのかな」と思います。カルマを無闇に恐がっているのは、幽霊を恐がっているのと本質は同じです。
あるいは日本に大地震が来ることを、いつも恐れているのとそう変わりがありません。思い込みを前提にして「怖い、怖い」と、怯えているのと同じです。
こうした「怯え」の状態は、本質は「畜生(動物)心理」と同じです。動物(畜生)は常に恐怖に怯え続けています。ビクビクしている。人間でいえば一種の神経症です。
常に不安でビクビクして怯えている状態。これはマズイ心理状態です。まさに、暗く、ネガティブな心の状態。よろしくありません。
同じように輪廻転生もそうです。「怖い、怖い」といって、ネガティブな面ばかりに気を取られていて、いつも深刻に輪廻転生を受け止めている人もいます。
で、この心の裏に、否定的な性格が絡み、否定的な性格の嗜好の対象として、カルマや輪廻転生があるということなんですね。
カルマや輪廻転生に興味を持つ動機に気づくこと
仏教では、カルマにしても輪廻転生に対して、ここから脱却することをテーマにし目標にもしています。そうした目標なり目的を持っていること自体は評価できます。
けれども、その動機に、不安心理やネガティブさ、否定的な感情があるかどうかをよく観察し気づいて自覚することは欠かせません。
その否定感は、もしかすると過去のトラウマや性格的な歪み、否定的な気質にに基づいていて、その延長でカルマや輪廻転生をネガティブに受け止めているかもしれないからです。
もっとはっきりといえば、カルマや輪廻転生を、自らの否定的な性格に共鳴するための材料にしているだけなのかもしれないからです。
ここを喝破することは極めて大事です。こうした「自己観察」は欠かせないんですね。でなければ、否定的な性格を容認し続けることになります。
根っこにある大きな問題を見過ごしてしまう。カルマや輪廻転生にマイナスにこだわったり、関わったり、あるいはカルマや輪廻転生からの超越したがる動機の裏に隠れている本心に、気づくことができるかどうか。ここは重要です。
こうしたことに気づかなければ、ますますその不安や恐怖を助長してしまうでしょう。否定的な性格でお悩みの方は、決して改善することはないでしょう。
なぜなら、その不健康なメンタリティになることを無意識のうちで評価し、認めてしまうことを続けているからです。
カルマ・輪廻転生神経症
「解脱」を強く願っているかに見えて、その実は不安神経症のあらわれのことがあります。あるいは否定的な性格が好む対象として「カルマや輪廻転生」があるといったケース。
こうした場合では、カルマ(業)を滅却することを目標にしていても、不安神経症のあらわれだったりします。
その高尚な目標なりを大切にすることによって、不安神経症をも後生大事にしてしまい、助長してしまっていることもすくなくありません。「カルマ・輪廻転生神経症」です。
この構造が見えているかどうか。見えていなければ、気分が晴れることはないでしょう。本質は「カルマ・輪廻転生神経症」になっているからです。
「カルマ・輪廻転生神経症」は、改める必要があります。どんな素晴らしくも高尚な目標を掲げようとも、不健康な心の状態はよろしくありません。
一時的に深刻になって考えたり、悩むのならまだしもです。が、これがずーっと永続しているなら、かなりの問題です。
高尚な目標を掲げることによって、神経症を改めることに気がつかなくなっているどころか、神経症にお墨付きを与えてしまってうことが起きています。
こうした構造に気がついていない方が、残念なことに、意外と多い気がしています。
陰謀論もカルマ・輪廻転生にハマることも不安心理なことが多い
こうしたことは、陰謀論にハマり、正当化することに似ています。世の中の真実を追究するといいながら、実は不安心理が心地良く、その不安心理に耽溺するために陰謀論にハマっているケースがあります。
陰謀論が嫌われるのは、その内容もさることながら、発信者が醸し出す否定的なメンタリティに彩られた印象や雰囲気なんですね。認知的不協和まで引き起こし、冷静さも失っているケースもあります。
「カルマ・輪廻転生神経症」もこれとまったく同じです。強い不安心理が根底にあることが多かったりします。
恐怖や不安だらけな動機であることが問題
カルマにしろ、輪廻にしろ、これらから超越したいと望むのは、それなりに真っ当な理由や目的にもなります。
が、ただ、それに向かう動機が恐怖や不安だらけなら問題です。また、その本心や動機に気づくこと無く、ずっと不安になっているのはもっと問題。
不安であり続けていること自体が「悪」であり「罪」であり「穢れ」であって、「無明」にとらわれた愚か者であることに気づかないとならんのですね。
きっかけとして不安心理は「あり」です。しかし、その不安心理をずっと引きずり続けるのは不健康。よろしくない。
そもそもカルト宗教が、信者に恐怖や不安を与え続けて、それをモチベーションにして宗教活動に走らせているくらいです。信者は不安や恐怖で動かされていることに気づいていません。
これと同じことを、人によっては自分で行っている。カルマ、輪廻転生、陰謀論、お化けなどなど。
自分で自分に恐怖や不安を与えて、自分を動かしています。で、巧妙に高尚な理由を並べ立てて、自分の本心を直視することなく、誤魔化し続けている。表向きは「解脱」だの「悟り」だのといっても、その本心が穢れたまま。で、いつになっても気が晴れない。
が、これって滑稽ですよね^^;「誰と戦っているよ?」じゃありませんが、恐怖を相手に一人相撲しているわけです。で、自分で自分の首を絞めているんです。
恐怖・不安は恐怖・不安に共鳴する
カルマや輪廻転生の持つ否定的な側面に関心を持ったり、恐がるのは、その心に、恐怖や不安が色濃くあるからなんですね。
恐怖や不安が強いから、恐怖や不安をかき立てるモノに共鳴してしまう。その対象が、カルマであったり、輪廻転生であったり。
もし、カルマや輪廻転生を知らなければ、別の恐怖や不安のモノに共鳴します。
NWOとか、ロックフェラーの世界制覇とか。デイビッド・アイクのトカゲ宇宙人とか^^;あるいは、自分の持つコンプレックスに関心を持ってしまうとか。不安なものやネガティブなものに関心を寄せてしまいます。
だから「どういった動機やモチベーションで動かされているのか」という、本質レベルでの動機や、心の仕組み、メカニズムを理解する必要があります。こうしたいことを把握した上で、カルマにしろ輪廻転生にしろ向き合う必要があります。
そうしませんと、シャドーとなっている恐怖や不安を、無意識のうちに認め続け、ここから一歩も脱却できないどころか、ますます恐怖や不安心理を増長させてしまうようになります。
このことは、実のところ「不幸の状態」とまったく同じだったりします。マイナス思考に染まりっぱなし。なので、こうしたことに関わると、明るい気持ちになれなくなるんです。
自分の心、動機を観察すること。自己観察。何故、自己観察が大事なのかもおわかりですよね。
「前世の業」神経症
カルマを無くすだの、輪廻から解脱するだのと、確かにその目標なりは評価できるのですが、その意図の背後にある、本当の動機に気づくことによって、問題となっている不安心理の根っこに気づくようになり、その根を引き抜くことができるようになります。
「前世の業」もそうです。「前世の業」というのがあるのは確かです。そういう言い回しも時々使います。
ただ、その「前世の業」なりを、深刻に受け止めている場合は注意が必要です。そもそも、その「前世の業」を、具体的に明確に把握しているのか?
実際は、そんなことはできていませんよね。「なんとなく」、そう思い込んでいるだけだったりします。
「前世の業」の具体性はわかっておらず、漠然と曖昧に「前世の業」と思っているに過ぎません。
だから、これを「観念」「妄想」というんですね。実質、「空想」や「想像」と同じです。漠然と「前世の業」なんて思っているのは、本質は妄想や想像なんです。脳内で物語を作って「妄想」しているだけなんです。
で、そんな脳内ストーリーの妄想に対して深刻になっている。これも滑稽ですよ。映画や小説をリアルと思い込んでいるのと同じだからです。笑われちゃいますよ。
で、妄想や想像に対してリアル感を伴ったり、こだわりを持って深刻になるのが「神経症」なんです。これは「前世の業神経症」です。
神経症を改めるためには不安なものから離れること
「カルマ・輪廻転生神経症」にしろ「前世の業神経症」にしろ、スピリチュアルには神経症にしてしまうものがあります。
で、神経症の場合は、不安をかきたてるものから離れることが先決です。もしも、カルマや輪廻、前世の業に不安を抱いているなら、それから離れてしまうことですね。
遠ざけてしまう。心が回復するまで遠ざける。接しない。考えない。頭に浮かんだら別なものに切り替える。
健全に向き合えるまで封印してしまう。
カルマ、輪廻転生、前世の業というものが、不安心理の引き金、トリガーになってしまっているからです。
スピリチュアルや仏教には、その教えや価値観に共鳴するかにみえて、その実は「不安神経症」を過保護にしてスクスクと育て上げてしまい、こじらせてしまっているケースが意外とあったりします。
こうした不安心理の根っこや構造に気づくことが大切なんです。そもそも根に気づかなければ、不安心理の根っこに気づきません。「無明」のまま。が、根っこや構造に気づくことで新しい動機から向き合うようになります。
健全で明るい気持ちになれば、もっと別のニュアンスで受け止めるようになります。「悪いことをするとカルマの作用を受けるからねー」、「輪廻転生って面倒だねー」とかいったように、ゆったりと受け止めるようになります。またポジティブにも受け止めることができるようになります。
「ひーー」とひきつったり、恐がるモチベーションとは全然、異なります。目指しているのは同じでも心の様相が全然、異なってまいります。
ふつーの人や放蕩息子が望ましい
仏教やスピリチュアルには、おどろおどろしいものや、不安心理を煽るものが横たわっています。
もっとも、正反対なものもあります。キラキラ、夢ワクワク、ファンタジー一色なものも多いですけどね^^;
しかし、これも不安心理の裏返しなんですね。結局、不安心理に根ざし、引きずりっぱなしにしているのが多いんです。
で、こうした不安神経症に陥っていないのが「ふつー」の人なんです。だから、「ふつー」がお勧めでもあるわけなんです。いらん不安を抱えていません。
しかし放蕩息子のような体験を経ると強くなります。仏教やスピのネガティブさに揉まれて、苦しめられて、それで、ふつーになって戻ってくる人は強い。
一皮むけています。まさに放蕩息子のたとえの通りです。ふつーになって戻ることができる、そのプロセスが大切だったりします。
最初の動機、モチベーションとしては、「怖いもの」がトリガーとなるのはありでしょう。が、いつまでも強い不安心理で突き動かされているのは不健康だですね。暗い人生を作りかねません。
自然体のすすめ
思想的、観念的に、理屈の上では「正しい」と納得していても、実のところ、身体意識、身体の反応は嫌がっていることがあったりします。ハートが「おかしい」と感じる。
こうした身体の反応や意識の声は大切です。どんなに理路整然として正しく映っても、ハートや身体の反応のほうが、実は正しかったりします。
少なくとも、今の自分にとって必要か否かは、身体の反応やハートの響きにしたがったほうがいい。
世間での評判とか、他人の評価とか、流行を気にしているうちは、自分の軸や方向性も定まりません。
身体やハートの反応を重視する。この感性。もちろん、チェッカーとして知性も大切です。併用していきます。知性を無視したものは、おおよそ愚かにもなりがちです。
で、こうした感性や意識を伸ばすのが「自然体」だったりします。自然体から智慧も生じてきます。で、自然体になるためには「くつろぐ」ことですね。リラックスです。瞑想も「くつろぎ」です。
そして、動機に気づき続ける「自己観察」を行うことですね。また「慈悲・ハート」をつちかっていく。
瞑想(リラックス)、自己観察、慈悲・ハート。こうしたことで「気づき」の意識が強くなって、叡智、慧眼、洞察も生まれてきますね。
シンプルなことなのですが、このシンプルさに徹することが大切だったりしますね。