金井南龍「かみさまのおはなし(神々の黙示録)」は大本教と出口王仁三郎の秘話が満載

金井南龍という昭和の神道家

昭和の時代に金井南龍という神道家がいました。サブカル的でマイナーな神道家でしたが、知る人ぞ知る神道家です。

金井南龍は、大正6年(1917年)、群馬県に生まれています。本名は三吉。子どもの頃から霊的にスジ(霊能力)があったたといいます。

成人後、会社の経営を続けていたようですが、40代半ば頃より、山野を巡りながら修行を続けたといいます。平成元年(1989年)にお亡くなりになっています。

金井南龍氏は、こうした経歴の方ですが、昭和の時代にはレアな神道家がいました。

山蔭基央(やまかがもとひさ)氏という神道家もいらっしゃいました。金井南龍氏も、そういった方のお一人だったようです。

金井南龍氏は、神道修行を軸にした実践家です。発言内容も実践ベースです。といいますか超感覚ベースですね。

そんな金井南龍氏。
1980年に著書を出しています。それが「神々の黙示録 謎に包まれた神さま界のベールを剥ぐ」です。

今では入手困難なレア本。
明治・昭和の精神世界の復刻本を出版している「八幡書店」の武田祟元氏が司会となっている貴重な本でもあります。

現在では「かみさまのおはなし」として復刻もしています。で、「かみさまのおはなし」は、「神々の黙示録」に収録されなかった話しも掲載されているとか。

金井南龍は先天的に霊的な素養があった

金井南龍氏は霊的にスジのある子どもだったといいます。霊的な素養のある人は、あかちゃんの頃から、人のあたまをなでると癒やしができるといいます。それで素養がわかるといいます。

金井南龍氏は昭和30年から44年まで神行に励んでいます。
息子と二人で。

しかし生活は極貧。
ご飯と煮干しだけ。
息子の服も一着のみ。
何回も縫い付けてボロボロ。
四畳半アパートにリンゴ箱一つだけ。
住民税は滞納。

そんな金井南龍氏の語録を、著書「神々の黙示録」よりピックアップしたいと思います。

金井南龍が説く親神と思凝霊

親神に会い、親神を知ることが大切。
親神とは永久生命のこと。
親神には直接会える。

◎親神を知る
神さまの声が聞こえる。厳しい道、餓鬼道を通る。堅忍不抜で畜生道を通り、修羅道も通る。「親神とつながる」ことができる。

◎分霊を知る
自分の本性を知る。これはわりとカンタン。要は自己発見。

親神にお祈りをして、親神の仲介があってはじめて他の神さまにお会いすることができる。他の神さまには、自分の神さま(親神)の仲介がない限りお会いできない。

自分一人でいろんな神にあったというのは全部うそ。思凝霊か狐か狸の低級霊。これだけで審神(さにわ)ができる。

思凝霊(しぎょうれい)
妄念による霊。
思い込み。
エレメンタル。
埴谷雄高「死霊」はウソ。
まさに思凝霊。

岡本天明「ひつくの神」
神に惚れ参らせよ

精神世界ブーム。
スピリチュアルブーム。
霊界、ヨガ、神仙界のほうへ
行っている。

これらは水平思考の世界。スライドしているだけ。垂直上昇して永久生命の神の世界を知ることが大切。(親神とは、類霊・類魂、あるいは宇宙意識、真我のことと思います)

神々の黙示録 第一章 南龍先生、神界の扉を開く

花の精はいる。
花の精は
花のすがすがしい匂いそのもの。

「十種神宝」とは
「道反玉(ちがえしのたま)」のこと。
神霊治療のこと。

ゴッホ
プロテスタントの聖職者を目指した。
厳格すぎて信者が減る。
信者から反発を買う。
教会から解雇。
生きる道は画家しなないと悟って画家へ。
このことは弟のテオドルに宛てた
「ゴッホの手紙」にある。

神さまから見込みがあると思われると、
功徳を授ける代わりに試練を与える。
お試し。
自分から離れないと思うまで
悲惨な試練が続く。
お試しの後のご褒美が大きい。
(でも、これっておかしいのでは?)

輪廻転生はない。
分霊を取られると
生まれ変わることはない。
廃棄させられる。

新興宗教は暴走族。

神には菊座がある。
五次元的存在。
稲荷、キツネ、天狗、カラス
といった妖精に菊座は無い。
妖精は四次元的存在。
天狗はスカンジナビア半島からやってきた。

神々の黙示録 第二章 埋もれた白山王朝と神々

明治には政府による祭神の書き換えがあった。神仏分離令によって、御祭神が記紀に神々に書き換えられた。

中山みき「高山の真の柱が唐人や。これが第一神の立腹」と言っている。この言葉は天皇が外国人であることへの立腹を示した言葉。天皇は外国人であるという。

名古屋にある霊相道宇佐美景堂が開祖。しかし大正2~3年、大本教の綾部で奉仕していた。

宇佐美景堂が教祖の中山ミキの部屋に行灯(あんどん)をもって行ったとき、みきは「ありがたいことに筆の先に明かりがついておって、それをなぞっていけば字ができるんですがな」と言って、行灯は要らないと言っていたという。

神々の黙示録 第三章 皇家神道に未来はあるか?

風土記
皇室神道にあわないものは廃棄した。都合の悪いものは隠蔽、廃棄した。日本書紀、古事記、風土記は創作改ざんされている。

神社本庁は神がかりを卑しいものとして否定している。しかし神武天皇、神功皇后は神がかりをしていた。シャーマンだった。

金光教の教祖の指導は「神さまに祈れ」だけだった。あらゆる問題に対しても「神さまに祈れ、奉仕せよ」、「今月今日を一心に頼め、おかげはわが心にあり」というシンプルな教え。教祖は神さま奉仕一辺倒の人。通力を持っていた。

神々の黙示録 第四章 大本教はなぜ神さま革命に失敗したか?

この章では大本教の知られざる話しが語られています。出口王仁三郎と、その周辺の話しが満載です。

大本教に入る前の出口王仁三郎

出口王仁三郎は、出口なおに出入りする前に長沢雄楯に弟子入りしている。明治31年、28才の年の話し。ここで鎮魂帰神を習得。神がかりがよくできるようになった。

その頃の出口王仁三郎の守護霊は、武内宿禰(たけうちのすくね)の霊統第一の小松林命の神さま。

日露戦争の預言をした。で、6年後に的中。出口王仁三郎の預言力はすごかった。長沢雄楯の一番弟子である宮城島金作と双璧。

大本教黎明期の出口王仁三郎

大本教の黎明期の頃、出口王仁三郎は教団の資金獲得のために、自ら保険セールスを行っていた。教団経営のため、自分のため、信者のために、保険の代理店を行っていた。

明治28年、大本教開教の2年後は40人。3年後は信者380人。

みんな仕事をして寄進しあって教団を支えていた。開祖のお筆先の半紙と墨を買うためにお金を出し合った。神業のために献身奉仕をした。

出口王仁三郎は料亭の女将を手玉にとったり、金持ちに金を出させることにも長けていた。俗っぽさも持ち合わせていた。

王仁三郎の名前の由来

もともと喜三郎という名だった。が、ナオの神さまが「鬼」にしろと命名。鬼は酷いということで古事記から「王仁」を探して、これにした。

ちなみに王仁三郎は「スサノオ系」の人。スサノオ神界八合目の分霊だった。

「オニサブロウ」は現代社会の悪の見本として、「乱世のやり方」をみせて、反面教師としていただく。みなはそれを見て自らの内にある悪を改心し、善に生きよという面倒なことを言っていたという。

出口なおの兄弟

出口王仁三郎のおばあさん(出口なお)は、言霊学の「水穂伝」の著者、杉庵志道の妹。杉庵志道はカラスや雀の言葉がわかった人だった。

湯浅仁斎

湯浅仁斎
大本教の草創期に出口王仁三郎と組んでいた。各地を回って病気直しをしていた。

湯浅仁斎のおじいさんは永平寺の管長。福井の大金持ち。

湯浅仁斎は、九州の赤銅御殿というお金持ちのお嬢さんを治した。部屋に入るなり枕を蹴って「立て」と言って怒鳴った。二階に寝ているお嬢さんの枕をパーンと蹴っ飛ばした。すると病気が治った。

大本教が大きくなったのは、湯浅仁斎が全ての田畑を寄進したから。この頃の大本教には、病気治しのすごいのがたくさんいた。一騎当千のすごいのが沢山いた。

小沢宗雄

小沢宗雄
どんな病気でも治せる力をくださいといって、100日間の断食誓願を立てた。100日断食しても死ななかった。

その後、小沢宗雄には本当に病気治しの力が付いた。100人全員が治る奇瑞の力。

しかし小沢宗雄は絶命してしまう。ヤクザのお嬢さんが肺結核。結核菌に冒されていた。

が、もしも治せなかったら腹を切れと約束させられる。が、娘は死んだ。ヤクザは短刀を持ってきて、小沢宗雄に腹を切れと迫る。切腹。

ところが亡くなったヤクザの娘は、病院で検査をしたところ結核菌は無かった。確かに結核菌は無くなっていた。

しかし娘は死んだので、約束通り小沢宗雄は腹を切って絶命した。

出口王仁三郎の霊能力

出口王仁三郎は霊力が強かった。「息吹きの法」をかけられると、大広間の畳をコロコロと転がって吹っ飛んでしまう。

植芝盛平も大本教の信者だった。出口王仁三郎の側近。

植芝盛平の合気道は、出口王仁三郎の「息吹の法」に似ている。

蒼々たる霊能者が在籍していた大本教

大本教といえば出口王仁三郎だが、他にも優れた霊能者が多かった。その後、教祖にもなった知名度の高い霊能者はざっと挙げても、
・浅野和三郎/心霊科学研究・日本の心霊主義運動の父
・谷口雅春/生長の家の開祖
・友清歓真/神道天行居の教祖
・宇佐見景堂/霊相道の教祖
・岡本天明/画家・神道家・日月神示の著者
・植芝盛平/合気道の創始者(開祖)
・木原鬼仏/霊術家・心霊哲学会の代表
がいる。
彼らは草創期に活躍した霊能者達。

大正5年、浅野和三郎が世の立て直しを喧伝。毎日、全国から200~300人のインテリがやってくる。大半は神を信じる気分になる。

しかし大正10年の第一次弾圧のときには、浅野和三郎、谷口雅春、友清歓真は離脱。

この頃、大本教では鎮魂帰神が盛んだった。神霊とつきあった体験のある人達だった。木原鬼仏も大本教にいた人だった。

友清歓真の活躍と離反

天行居の友清歓真
政治運動に興味があった。
新聞を発行していた。

友清歓真は大正7年に大本教入信。
大本教では神霊界、
皇道大本の研究をあらわす。
大元の宣伝を担う。

大正8年に離反。
静岡の長沢雄楯の元へ行く。
本田霊学を学び、鎮魂帰神を学ぶ。

その後、宮地神道を摂取。
昭和2年に「天行居」を設立。

「鎮魂帰神の原理及応用」
という著書を出版。
自費出版。
ここには出口王仁三郎直伝の秘伝が記されている。
「乾坤一擲」という印刷物。

それは「霊学筌蹄(せんてい)の夢感」。これは本田親徳の鎮魂帰神の秘伝。本田亀次の霊視能力を使って写し取った。

本田亀次は、宇都宮の神霊家・松川勇に見いだされた。本田亀次は赤ちゃんの頃に脳膜炎にかかり右手、両足が不自由になってしまった。しかし精神統一の練習をしていたときに神がかりがおきた。

この松川勇に神がかった神が、友清歓真と会うように勧める。その後、九鬼盛隆に会うようにも指示。で、友清歓真は九鬼盛隆と出会う。大本教を攻撃。

「鎮魂帰神の原理及応用」と「事実第一」というパンフレットで大本教を攻撃しはじめる。が、後で九鬼盛隆に弓を引いて別れる。

変性男子・変性女子

大本教には、
変性男子(へんしょうなんし)
変性女子(へんしょうにょし)
という教えがある。

変性男子・・・肉体は男性だが霊体は女性
変性女子・・・肉体は女性だが霊体は男性
両者の協力によって神業が成し遂げられるという教え。

「艮の金神」に対して「坤の金神」もあるという。これも変性男子・変性女子の教えに基づく神学。

金井南龍は元祖スピリチュアル

ということで金井南龍の「神々の黙示録」より、ピックアップして紹介してみました。

昭和の頃のレアな情報ですね。今では、個々人がブログで書いていることと、そう変わりが無いかもしれません。いえ、現代のほうがもっとバラエティに富んでいるかもしれませんね。

しかしながらこうした霊的世界の話しは、この世の世界が複雑で多岐にわたっていることと同じですね。

向こうの世界も複雑です。いろんな説明の仕方もあります。そもそも霊的次元は「想念の世界」ですので話しは無限大です。いろんな説明の仕方、感じ方があります。

ですので霊的世界にドップリと浸かりますと、「いまここ」「プレゼンス」から遠ざかっていくことにもなりがちです。

「ま、そんなこともあるよね」くらいに留めておくのが、こうした世界と関わる際には大切かなとも思います。

それにしても金井南龍氏。破天荒な方な印象です。いろんな方がいらっしゃいます。

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