戒律~仏教とキリスト教修道院との違い
仏教とキリスト教、あるいはイスラム教にもそうですが戒律があります。
しかし仏教とキリスト教とでは、戒律の厳しさの点において違いがあったりします。
キリスト教で最も戒律が厳しいシャルトルーズ修道院
フランスにシャルトルーズ修道院があります。ここはキリスト教で最も戒律が厳しいといわれている修道院といわれています。映画「大いなる沈黙へ」でも舞台となった修道院です。⇒世界一戒律の厳しいシャルトルーズ修道院の映画「大いなる沈黙へ」
シャルトルーズ修道院はフランスのアルプス山脈にあります。映画を見ても分かりますが、寒冷地です。雪は多いですね。自然環境もかなり厳しい。
で、シャルトルーズ修道院での戒律は、たとえば、
- 修道士同士の会話は禁止(ただし日曜日の昼食後の散歩時のみ会話ができる)
- 連絡をする場合は投書箱にメモを入れて伝え合う
- 1日に7回、独房で祈りを行う
- 一日の生活はほぼすべてが決まっていてパターン化している
- ミサ、祈り、洗濯、食器い、雑務などが全て決められている
- 睡眠は20時~0時、3時~6時の二回に分けて取る
- 深夜0時~3時礼拝堂での祈り
といった感じです。この様子は映画「大いなる沈黙へ」でも見ることができます。
修道院では「沈黙」が貫かれる感じですね。
戒律は原始仏教のほうが厳しい
しかし厳しい戒律といっても、原紙仏教の戒律のほうがもっと厳しかったりします。原始仏教はもっと厳しいです。
伝言の依頼、計算、政治に関する発言、そういったことも禁止です。花の香りをかぐことも禁止です。他の修行者に触れることも禁止。ほかにも、こうした些細な言動を規制する戒律があります。
原始仏教における戒律から見れば、修道院の中でも最も厳しいとされるシャルトルーズ修道院であっても、やさしい印象です。実は。
映画「大いなる沈黙へ」では、ラストの辺りで、修道士達がスキーを楽しむ姿も映されています。またピニクニックに外出したり。声高に笑う声もあったりします。
で、こういう有り様ですら原始仏教では、戒律違反になります。
ですのでキリスト教で最も厳しい戒律といわれているシャルトルーズ修道院の戒律は、原始仏教からみればやさしいんですね^^
戒律は取り組みを間違えると心を歪ませる
けれども戒律を遵守するというのは、一歩間違えると、心を歪ませてしまうことになります。
教条主義や形式主義のようになってしまうと、心を悪くしてしまうことが往々にしておきます。
戒律を守るということは、ものすごいことに挑戦することになるのですが、禁欲、抑圧になり、「我慢大会」になってしまうことがあります。下手をすると、かえって心を歪ませることも。
ですので修道院もそうですが、戒律の厳しい出家生活を、教条的に行うのはよろしくなかったりします。
無理をし過ぎると、まず修行が進まなくなります。本末転倒な現象が起きるんですね。実のところ。
形式主義や教条主義はリスクがある
シャルトルーズ修道院の様子を見ていますと、こうしたあたりが気になったものです。
いえいえ戒律を守ることは、そうそう出来ることではありません。挑戦すること自体は素晴らしいと思います。が、「何が目的か目標か」ってことですね。
修行において形式主義や教条主義になってしまいますと、屈折したかたちで下品になっていくことがあります。抑圧、禁欲になり、意識下に煩悩を封じ込めるからですね。
事実、キリスト教聖職者の間では、変態性の性犯罪や事件がかなり起きています。⇒カトリック教会の性的虐待スキャンダル、法王はどうする バチカンで会議始まる
ゆるめのカトリックですら、この様です。結局、意志や心で欲望を抑え込もうとしているからです。こんなことをすれば気がおかしくなってしまいます。
戒律を守るにあたっては、無理なく移行していくプロセスが必要だったりします。それが「神に明け渡す」ということなんですね。
明け渡しがうまくゆくと、神・創造主に溶け込むようになり、煩悩が溶解していくようになります。
こうした「意識の変容」を伴いながら戒律を守ることをしていきませんと、戒律がかえって心を歪ませ、抑圧となり、魂の成長の足かせになってしまいます。本末転倒な現象が起き始めます。
で、こうしたことを理解した上で指導するならまだしも、型式主義や教条主義に徹してしまいますと、とかく問題が起きるようになります。
戒律の本当の実践は「神との合一」を実現してから
厳しい戒律は、実のところ、「神との合一」や強い心が生じて、初めて真正面から向き合って取り組むことのできるテーマでもあったりします。
もしかするとシャルトルーズ修道院では、「神との合一」を実現されている方はいらっしゃらないか、少ないかもしれません。実際のところは分かりません。
けれども、その厳しい「規則や決まり」が、かえって障害になってはいないかと。
戒律を守ろうとする努力や目指すことは尊いことです。が、大丈夫であろうかといった気もいたします。
ということで今日は仏教とキリスト教における、戒律の厳しさの違いについてでした。