仏教の瞑想修行は自力か?他力か?

瞑想修行は自力か?他力か?

修行は
・自力なのか?
・他力なのか?

時々、話題になりますね。
これは仏教の「三学」に沿って説明すると、わかりやすくなると思います。答えを先に言いますと、

  • (観念的)・・・自分で戒める、自分で修行する。
  • (瞑想的)・・・自分が弱まる。自分でないものが感じられる。サムシング・グレート。←途中経過としての「他力」
  • (悟り)・・・本当の無我(私はない)←自分が無くなったという意味での「他力」。「あるがまま」の完成形。

この通りですね。

で、いわゆる「修行は自力」というのは、

  • 入門者
  • 初心者
  • 神を信じて頼り切っている人
  • 教祖に依存している人

といった人向けの言葉ということですね。
以下に、くわしく説明してまいります。

瞑想が深まると「自分」という思いから離れていく

瞑想を続けていきますと、次第に「自分」という感覚とは違う「何か」を感じるようになります。

で、その感覚は
・善
・徳
・真我
・創造主
・恩寵
・他力
とも言えることが感じられてきます。

ところが仏教、ことに原始仏教になりますと、
・真我
・創造主
・恩寵
・他力
には言及しないどころか、否定的です。

さて、これは一体どういうことなのか?

原始仏典では自力が強調されているが

体感的には恩寵とも言えるんだけれども、原始仏典を読むと「自力が強調」されています。

で、確かに仏典には、そう書いてあります。
表面上の文字の説明では、まさに「自力」に受け止められます。

「誰かや他人があなたを浄めることはできない」といったことを、ブッダも言われています。

原始仏教においては、「自力による修行」という理解は一般的です。

恩寵や救済など、微塵もみられません^^;

けれども、実際の感覚と照らすと、
「おや?」
「なんか違うぞ」
「ん???」
といった具合にモヤモヤしてきたり、疑問符が頭の中を飛び交うことになることも出てきます。

経典に書いてあることと、体感に違いがありそう。

そんな感覚にもなります。

自力推奨は入門者向けの言葉

で、答えを最初に書きましたが、こうした実際の体感との違いが起きる理由は、自力を説いているブッダの言葉は、わりと初心者向けの言葉ということですね。

瞑想が深まってきますと、とてもではありませんが「自分がしている」という感覚にはならなくなると思います。

もし「自分が・・・」という思いで行っているならば、おそらく未来永劫、瞑想は深まらないと思います。

ですので「自力」は、最初に書いた通りで、

  • 入門者
  • 初心者
  • 神を信じて頼り切っている人
  • 教祖に依存している人

に向けた言葉であろうと思うわけですね。

また「自力」はわかりやすい表現ですので、広く横行してしまっているとも思います。

これが「恩寵」とか「創造主」とか言いますと、「はあ?」「なんだ、その迷信は?」と突っ込まれることも多くなります。

ですので、ツッコミどころが多くなりそうな「恩寵」とか「真我」とか「創造主」という言葉は使わなかったのではないかと思います。

自力の落とし穴

そもそも「自力による修行」は、「私-あなた」といった観念的な立場における言葉ですね。

で、非常にわかりやすい言葉です。
特に知的だたり合理的な人には納得です。
とてもわかりやすい表現でもありますね。

けれども「自力の推奨」は、繰り返しにしますが、初めて仏道修行を始めた方に対しての言葉ですね。

殊にそれまで何か神さまを祀って祈る修行をしていた人や、依存的な修行をしていた人に対して、「人を頼りにしないで自分で修行しましょう」という意味でアドバイスした言葉ではないかと思っています。

実際、誰かが代わりに修行をしたり、全てを浄めることはできませんからね。

瞑想が深まると他力になる

ところが瞑想が進んでいきますと、自分から離れた感覚が生じるようになります。

この表現は、「解離」として受け止められる心配もあるため適切ではないんですが、広がる感覚や自分の枠を超えた諸々を感じるようになります。

逆説的なのですが、「自力」では決して瞑想は深まりません。

そもそも「自分が瞑想する」という「自力」の姿勢では、瞑想は決して深まることはないんですね。

ほら、この時点で、論理的にも破綻していることが、おわかりかと思います。

自力では瞑想は深まらないようにできているんですね。

逆に、自力で瞑想をし続ければ、心を病みます^^;

ですので、仏典で言っている「自力の推奨」とは、やはり初心者向け、入門者向けの心構えであることが浮き上がってくるわけですね。

瞑想とは恩寵がもたらすもの

最初は自力で瞑想なり修行をしていたとしても、やがて自分というのが薄まってきて、「サムシンググレート」としかいいようのないものを感じるようになってまいります。

瞑想が進んできますと、「自力」ではなく、「恩寵」「他力」といった言葉がピッタリ合ってくるようになります。

しかし原始仏典では、こうした言葉の代わりに、
・ピティ
・スカ
・禅定
といった「心の状態を示す」言葉を使っています。

でも、ピティにしても、スカにしても、その中身は「自分」というのが薄まっています。ですので別の言い方もできるわけですね。それが、
・他力
・真我
・創造主
・恩寵
といった「自分を離れた感覚」を示す言葉です。

で、実際、こうした言葉を使っても差し障りはありません。

むしろフィット感があります。

原始仏教は隙の無いスタイルを取った

ところが「創造主」は特にそうですが、先ほども書いた通りでして、「はて?」となることが多くなります。

しまいには「迷信」扱いされてしうことにも^^;

もうツッコミどころが満載になります。

それで原始仏教では、特にアビダルマでは、非常に厳密かつ隙の無い構成を取るために、曖昧な言葉の使用を避けたのではないかと思っています。

仏教はインドに登場した宗教です。
インド人は論戦が好きですからね^^;
この国民性は、現在もそうだといいます。
インドへ旅行へ行く日本人向けのアドバイスに「インド人は、タクシーの運転手であっても決して口論してはいけない。日本人は必ず負けるから」というのがあるといいます。

このことは2500年前も同じでしょう。

仏教では論戦は禁じられています。

そこで、相手から教理論争、論戦をふっかけられにくいように、ツッコミが起きにくいように、論破されにくい、ツッコミされにくいスタイルに仕立てる必要があったのではないかと。

それで誰もが確かめることができる「心」にフォーカスして、仏教を言語化したのではないかと。

これは当たらずとも遠からずではないかと思っています。

高次の状態を言語化する

結局、高次の心や意識や状態に関しては、「どこにフォーカスして表現するのか」といったことになりますね。

原始仏教は、誰もが理解できる、確かめることができる「心」にフォーカスしています。

ですので仏教では、「108ツの煩悩」の例えの通りで、様々な心を精緻に分析しているんでしょうね。

ちなみに、悟りの修行になりますと、「自力」「他力」という観念そものが「余計なもの」としてスルーされていきます。観念的な諸々を横に置くようになります。

けれども瞑想(定)の段階においては、適切な観念や対象は、むしろ瞑想を助けるツールになります。

ですので、この点からいっても、原始仏教で強調しているかにみえる「自力」は、「神さまにすがったり、教祖に依存しないで、自分で修行しましょう」といった初心者、入門者向けの言葉になることがわかります。

悟りの修行の前段階なら方便としてOK

あと話しは脱線しますが、大乗仏教時代に「仏像」を設けたり、「真我」的な「如来」「菩薩」、密教にいたっては「明王」の概念も登場します。

が、こうしたものは、高次の心がもたらす諸々を形にした、観念化したものですね。

つまり、悟りの修行の前段階(瞑想の段階)なら、方便としていろいろな観念やツールを使うこともOKということですね。

ですので、この考えを発展させると、日本の仏教におけるさまざまな様式や観念も、「高次の心がもたらす象徴」として取り扱うことができて、日本の仏教の矛盾や問題点をクリヤーすることができますね。

まとめ

瞑想もそうですが、精神修養や何らかのトレーニングでもそうなんですが、「最初は自力」の感覚で始めることがあったとしても、やがて「他力(自分から離れた有り様)」としていいようのない有り様になってまいります。

で、やや乱暴であり厳密には不適切になりますが、「他力」を「無我」という言い方もできますね。乱暴なんですが。

それで仏教は「無我にてそうろう」の通りで、自力から始まるかにみえて、実は「無我」という「自分を超えた有り様に至る」という、ある種の逆説的に歩みになっています。

これからもおわかりだと思いますが、やはり「自力の修行」は論理的にも破綻しているんですね。また実際の修行の観点からいってもおかしい(進まない)んです。矛盾だらけなんですね。

で、答えを言えば、最初に書いた通りで、

  • (観念的)・・・自分で戒める、自分で修行する。
  • (瞑想的)・・・自分が弱まる。自分でないものが感じられる。サムシング・グレート。←途中経過としての「他力」
  • (悟り)・・・本当の無我(私はない)←自分が無くなったという意味での「他力」。「あるがまま」の完成形。

ということですね^^

初期仏教は「自力」を説いている。
恩寵とか創造主とかはおかしい。
というのは、非常に短絡的な受け止め方といいますか、観念的な受け止め方でして、大脳新皮質脳的な合理的過ぎる有り様ですね。

そうではなく、実際は、恩寵、慈しみ、創造主、真我とも言える高次の徳性にひらかれる感覚から、進んで行くようになります。

で、仏道修行のプロセスでは「自分」という小さな枠から離れていくようになります。

その修行が八正道であり、菩提分法になって、下地作りの修行になっています。

で、最後に「慧」の修行で「解脱」「悟る」というのが、ブッダがお示しになられた修行なのかなあと思っています。

しかし上記で説明した通りでして、当時のインド(インド特有の問題)もありますので、隙の無い、ツッコミされにくい表現スタイルを取ったのが、伝承されている原始仏教なのではないかと思います。

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