自己観察をはじめたのは10代【一瞥体験】

1980年代の精神世界が流行~自己観察をはじめた10代

私が自己観察を始めたのは10代。
1980年の初期です。

この当時は、学生運動が終焉し、宗教やオカルトのブームが続いていた頃でした。この頃はまだ「ニューエイジ」とか「精神世界」とか言われた昭和50年代です。

デザイナーの横尾忠則さんも精神世界を精力的に探索していたほどです。
横尾忠則さんはUFO・宇宙人に遭遇し本も出版している! 細野晴臣さんはYMOで「無我」の音楽を表現~YMOは宗教バンド

で、1980年代の日本の精神世界のメジャーなところは、
・本山博
・マハリシ(TM瞑想)
・沖正弘(沖ヨガ)
・桐山靖雄(阿含宗)
あたりですね。
1980年代からこの世界にいる人は、この4人のいずれか、すべてを経てきていると思います。

ゴエンカさんの京都ダンマバーヌも1980年代

こうした1980年代ですが、ひっそりとしながらもど真ん中の正当な道を歩んでいるグループもあったものです。

それが「ゴエンカさんの瞑想」を行っている京都の「ダンマバーヌ」です。

ちなみにゴエンカさんの瞑想センターは世界217の地域にあります。
⇒ゴエンカ氏の瞑想センター各国の住所のタグを開くと世界217箇所のセンターが表示されます。
 
もしかすると、テーラワーダ系では世界最大規模かもしれません。日本では、京都のダンマバーヌは1989年に建てられています。が、ゴエンカ式の瞑想は1970年代から日本で行われていたようです。

自己観察を始めた理由

私も、この頃(当時16才)から探索といいますか、精神世界には興味を持っていますので、かれこれ40年のキャリアがあります。

きっかけは、以前も書いたので詳細は省きますが、解脱・悟りですね。

しかし当時は情報が大変乏しく、本を読んでも何が書いてあるのか当時はわからず(笑、16才には難しい)、手探りで行うことになったものでした。今だったら、あふれるような良書やガイド本があります。当時を振り返ると今のほうがありがたいですし、情報の大切さを痛感します。
 
で、当時は「天人や菩薩のような善の塊になることが解脱につながるんだ」と思い、善行や積徳を自分なりに始めたものでした。

しかし善いことをするためには「動機」が大切。そこで自分の心を観察する、観続けるというのを始めました。「自己観察」ですね。自己観察を行うようになります。

ドツボにはまった自己観察

しかし我流だったため、観察系に起きがちなドツボにはまり大変なことになりましてね。そのドツボとは、マインドだけを使って根を詰めて行うと必ずといっていいほど陥る現象です。
 
また無自覚となっている心が浮上して、その暗澹たる思いに振り回されるという現象です。

ちなみにこの現象をキリスト教神秘主義では「暗夜」といっています。サンカーラが浮上し、鬱みたいな暗い気持ちに取り憑かれるようになります。で、この手の暗夜に陥った人の手記もあります。
 
で、ドツボにはまったことと、暗夜に陥って鬱みたくなりまして。当時は心療内科はなく精神科しかなかったのですが、もし心療内科があって受けていれば「うつ病」と診断されたと思います^^
 
自己観察には、こうした危険な側面がありますので、適切に行う必要があるんですね。

暗夜に陥らせなくする受容力

ちなみにルアンポー・ティアン派の瞑想をイチオシする理由は、この危険な側面に陥らない(陥りにくい)からなんですね。

受容力による広がる感覚がクッションとなって暗夜に陥る心配が格段に少なくなります。
 
しかしそれでも時として、気づきが深くなると、このブラックな領域にハマってしまうことがありますので、意識の深い領域の観察になると注意が必要になります。
 
しかし、いったんブラックに陥ると大変です。厄介です。自分でリカバリーをしようとしても、心が萎えてしまっているので気力も起きず、嵐の中でさ迷う小舟のように流されてしまいます。

自己観察の末に訪れた一瞥体験

いろいろなことがありましたが、この自己観察を続けていたある日、驚くことが起きたものでした。

それが「一瞥体験」です。
私の体験は、こちらにとてもよく似ています。
悟りの地図~悟り系で行こう

自己観察で一瞥体験が起きることは、クリシュナムルティも「自己の終焉」で言っています。

しかし自己観察で起きる体験は、悟りではありません。一瞥体験は悟りではありません。

ちなみに悟りは、観察をしていたのでは起き得ません。「あるがまま」を本当に行う必要があります。

で、本当に悟った人の指導を受けないと、悟ることはできません。

一瞥体験と悟りとは、性質も方法論もまったく異なります。

しかし一瞥体験も尊い体験です。
意識に変容を引き起こします。
決して「真理のチラ見」といった性格ではありません。

しかし悟りではないということですね。
別の意味をもった体験です。
明治の宗教思想家・綱島梁川の一瞥体験を記したのが「予が見神の実験」

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