以前、ソウルメイトのことを書きましたが、昔に比べて、輪廻転生へのこだわりは格段に減っていましてね。
ええ。実は、そうだったりします。もう、ほとんど輪廻転生のことは考えなくなっています。
確かに輪廻転生はあります。が、過去世がどうだったとか、前世がどうだったかは、今ではもう、ほとんど興味がなくなりましてね^^;
今の行為が、来世に影響を及ぼすという意識はありますが、過去世がどうだったとかは、ほとんど興味も関心もなくなりましてね^^;ええ。
ま、輪廻も、その仕組みがより精密にわかればいいのですが、そもそも輪廻転生の仕組みは、そんなに単純なものではなさそうですからね。
安易に「自分の前世」と思うのは低級霊の仕業
で、「自分の前世は○×△◇~」であると強く思ったり、信じ込むケースには、低級霊が吹き込んでいるケースがあるといいます。
低級霊の仕業。低層アストラル界の存在ですね。ガキ界、天狗界の存在。それが語りかけている。耳元でささやている。
「あなたは、前世では武家の人で、源頼朝だったんだ」
「あなたは、マリーアントワネットの生まれ変わり」
「あなたは、紫式部の生まれ変わり」
これらは、低級霊のささやき。ガキ界、天狗界の霊が吹き込んでいると。
どっひゃーーーなんですね。
結局、世間一般に出回っている「ワタクシの前世~」は、ほとんどが妄想なんですね。低層アストラル界が関わっている。
だから前世の話しとかになると、なーんかモヤモヤとしたり、ムクムとおかしな欲がわいてきたり、極度に不安になったりする人が多いんだと思います。これらは低級霊、ガキ界、天狗界の特徴そのものですしね。
なので、前世が云々とかは言わないほうが良さそうです。てか、止めたほうがいいですね。ワタクシも別段、どうでもいいと思っていますし。もし言うにしても推理推測としてですね。
ただ、特定の場所、モノ、思いに強く惹かれたりする場合は、前世で縁があったことが多く、それは前世を解き明かすカギになるといいますね。
真正の前世関連と、低級霊・ガキ界・天狗界絡みとはきちんとわけたほうがいいでしょうね。
輪廻転生は複雑なメカニズム~類霊・類魂・分霊
で、そもそも輪廻転生(生まれ変わり)は、相当に複雑なメカニズムです。一つの魂といいますか、自己の五蘊(ごうん)が変化し続けて、死後、別の生命に転生するといったような、そんな単純な仕組みではなさそうなことがわかってきましたし。
「類霊」「類魂」「分霊」が存在しています。今の自分は、死後、「類霊」の元に帰り、いったんバラバラになって解体されて、そうしてまったく新しく合成された「自分」となって再生し、転生してゆくというプロセスがありそうです。
仕組みとしては、「現世の自分」を構成している五蘊(ごうん)が、いったんバラバラに解体されて、別の人の五蘊(ごうん)も交えながら、新しく自分を形成するといった感じですね。ややこしい。
で、いったん「類霊」という魂の源でもあるスープの元に戻って、そこに溶け込んでバラバラになって、でもって、その「類霊」スープを元にして、別の自分に再生していくといったプロセスになるといいます。
つまり輪廻転生とは「バケツリレー」のように、一つの魂が転生していくのではないということですね。
バケツの水は、いったんプールに戻されて、その「プールの水を別のバケツに汲み入れる」というのが、生まれ変わりの実相のようです。
カルマも類霊と分霊の業が複雑に絡む
なので「カルマ」というのも一筋縄で説明できるものではなく、自分以外が作ったカルマも含まれるようになることもあると。
で、そのカルマは「類霊」グループに所属する魂のカルマもあるといいます。
「類霊」は、10の魂(分霊)、20の魂(分霊)、あるいは1000の魂(分霊)となっていることがあるといいます。
で、それぞれの「分霊」が行ったカルマは、「類霊」に帰していくようになると。なので、「類霊」が持っているカルマが、「自分のカルマ」にもなっていくと。ややこしい。
言ってみれば「類霊」という遺伝子で、自分の意識やカルマが作られるようなものです。
驚きの仕組み。
で、こうした説明は、仏教にはありません。仏教の輪廻転生は「バケツリレー」で説明されるものです。
しかし実際は、どうやら違うようです。
「肉体」は、父親と母親の遺伝子によって構成されている。
「意識」は、類霊と、類霊のカルマによって構成される。
「潜在意識」は、類霊の頂点にある霊と、そのカルマによって形成される。
「深層意識」には、宇宙意識がある。
人は、こうした複合的な存在であって、いろんなエッセンスから構成されているということですね。
自己という感覚は錯覚
で、「自分」と感じている感覚は、単に「感覚」であって、それはどこまでも「そう思っている」自我に過ぎなかったりします。
なので「自分」という「感覚」は、本当は「ニセモノ」「錯覚」であって、思い込みであって、その思い込みが「リアル」であると錯覚しているところに、一つの大きな勘違いがあったりします。
ややこしい。大変、ややこしい。
しかしここがわかってきますと、「自我」「自分という感覚」が、どうしようもなく「錯覚」に過ぎないことが、理屈の上からでもわかるはずです。
なぜなら、この「自分」という思いそのものは、「バケツリレー」のように過去世・前世から連綿と受け継がれているものではないからです!
いったん「類霊」というプールの元に、水(自分)が戻されて、そこで攪拌されて、別の水と合わせって、今度は新しい「自分」が再生されるからです。
肉体は、両親の遺伝子によって作られる。意識は、類霊の意識遺伝子によって作られる。
じゃあ、この意識、つまり「自分」と感じている意識は何なの?単に反応を続けている、「見せかけの現象に過ぎない」ことがわかってくるはずです。
また、自分のカルマも、類霊のカルマ(自分以外のカルマ)を受け継いで、複雑になっています。
じゃあ一体、自分ってなんなのだ?
自分の運命って何?
別の人が作ったカルマまで受け継いでいる「自分」という存在は何?
見せかけの感覚が自己という感覚を生み出している
命とは、そういうメカニズムで機械的に作られている、「生命物体」かのようです。で、「自分」という実感が生じている。
しかし、その実感は、感覚が反応し続けている連続性の感覚に過ぎません。どこにも実体などはない。
自分が作ったカルマでないものまでも、自分が受け継いでいる。まるで遺伝子のようです。
これがわかりますと、「自分」という思いは、ほとほと錯覚であり、どうしようもなくいい加減といいますか、リアリティが無いことが理屈の上からもわかるようになります。
「自分」という感覚は、見せかけの感覚にしか過ぎない。錯覚。
しかし困ったことに、その「自分」という錯覚に、リアリティを感じてしまっている。これが問題。
で、これを喝破するのが「悟り」の第一関門。
生まれ変わりの実態がわかると悟りが必要な理由がわかる
このように、生まれ変わりの実態がわかってきますと、何故、悟り・解脱が必要なのかもわかりますね。
この肉体、意識、カルマは、実は「自分」の行為だけでなく、「類霊」という意識の集合体からも作られているという事実。
「自分の意志」「行為」は関係なく、生命の奇妙な仕組みによって、「自分」が機械的に作られているかのよう。
自分が作った「部品」のみならず、いろんなところから「部品」を寄せ集めて、肉体も、心も、寄せ集めの部品で作られている。
こんな肉の塊と、心の塊が自分。「自分」という思いや感覚を持つこと自体がナンセンスなことがわかってきます。拍子抜けですね。
「自分」が作っていない「カルマ」まで引き継いでいるというのは、なんとも爆笑ものです^^;
こんな存在に、執着するほうがどうかしています。てか、あり得ません。
「自分」とは遺伝子的にも霊魂的にもカルマ的にも寄せ集めの存在
感覚によって「自分」という意識や実感があるだけ。「自分」という感覚。
他人が作った心やカルマをも持っているのが「自分」。肉体も、遺伝子によって家系の影響を受けます。
心も意識遺伝子?によって、類霊の影響を受けます。カルマも、カルマ遺伝子?によって、類霊の影響を受けます。
「自分」なんて、寄せ集めの存在じゃん^^;それを「自分」と思い込んでいる。
滑稽ですな^^;呵々大笑とは、このことですな。
大爆笑ものですよ^^
はは(^o^)