「わたくしは無い」というワンネスへの違和感
自称、覚者の方で「わたくしは無い」といっている方。ワンネス体験したといっている方。
ちょっと違和感をおぼえる方もいらっしゃいます。
ノンデュアリティにわりといらっしゃるかもしれません。「この違和感って、何だろう?」と思っているのですが。
「一境性(いっきょうせい)」が生じているだけなのではないかと。
「一境性」とは、同一化する「心」をいいます。
サマーディです。
ひらたくいいますと「ワンネス」ですね。
これらを専門用語で「一境性(いっきょうせい)」といっています。
ノンデュアリティや禅では、「個我から離れたこと」をワンネスといっています。
で、「私は無い」とか「空」とか言われます。
これは、これで正しい表現だと思います。
が、そのワンネスは「一境性」によって、何かと一体化しています。何かと一体化しているので、「自分が無い(ワンネス)」という現象になっているのでしょうね。
しかし、正直なところよくわかりません。
というのもどこか違和感があるからです。
低次元とのワンネスはモラルや品性が無い
もしかすると、卑近なものとワンネス(一体化、一境性の心が生じている)しているのではないかと。
その卑近なものを一体化しているのを「空」と感じているのではないのだろうか。
破壊の性質を帯びている者は、修羅の空間(次元)そのものと一体となっている可能性もあります。
「修羅ワンネス」。
こうした低次元の領域とワンネスになるので、破壊的なことを言ったりしているのではないかと。
お下品なことを言う方は、畜生の次元そのものとワンネス(一体)となっている可能性もあります。
だから、言動が卑しくなるのではないかと。
何とワンネスしているのかが大切
個我が無くなる。
私が無くなるというのは、一つのレトリックです。
「では、何とワンネス(一体)となっているのか」というのを吟味する必要があると思います。
修羅や畜生の次元とワンネス(一体)となって、「私は無い」と言っているなら、ちょっと問題があるのではないかと。
低次元との一体化は問題を引き起こすのではないかと思います。これが、品性の悪い覚者を生み出す理由にもなっているのではないかと。
ワンネスの世界は永遠ではない
パーリ経典には、梵天の色界二禅より下のワンネスの世界は、周期的に世界そのののが崩壊し続けているいると述べています。
宇宙は生成崩壊しているだけでなく、ワンネスの次元ですら周期的に崩壊し、誕生する生成崩壊を続けていると、原始仏典では述べています。
これが、原始仏教に伝承されている宇宙・世界観だったりします。これらは深い瞑想で見抜いた宇宙の真理法則とも言われています。
梵天の色界二禅より下のワンネス世界が崩壊するということは、修羅や畜生の次元も滅ぶということなわけですね。
低次元とワンネスは再生する可能性がある
もしも、修羅や畜生の次元で一体となって「私はいない」といっているならば、修羅や畜生の世界にいることになります。
解脱はできていません。
なので、修羅や畜生の世界が滅ぶことがあれば、再び生まれ変わってくることもあり得ます。
なぜなら、一体となっている修羅や畜生の世界そのものが滅ぶからです。
以上のことは「仮説」です。
本当のところは、わかりません。
仏教の悟りは理想的な生命になるアプローチ
原始仏教が優れていると思うのは、宇宙意識を経由して、個我が溶解・超越して宇宙意識(真我)そのものと一体化し、最後は無我(真のワンネス)に達するアプローチとプロセスなんですね。
このプロセスでは、理想的な生命形態になるようにできています。
ですので真っ当な人が多くなります。
これが仏教の特徴。
また、こうしたプロセスを経るからこそ、外道にもならないのでしょう。
いろんな意味で、原始仏教は優れていると思う所以は、ここにもあります。